知覚知識に関する懐疑
ソームズによると,ライルの『ジレンマ』第七章は二つの部分に分かれる.第一の部分では,感覚知覚の誤謬可能性からの懐疑について議論される.ライルの主な主張は,そうした懐疑論証は自己論駁的であるというものである.第二の部分での主張は,懐疑主義そのものが自己論駁的である,というものであり,より野心的な議論である.
ライルは,何かが間違っているということは概念的に何かが間違っていない,ということを前提とすると考えているように思われる.何かが間違っているということは,なにか他のものが間違っていないかぎり,概念的に不可能である,という考えである.よって,とりわけ,すべての知覚判断が間違っている,という懐疑的結論はありえないのである.ライルはこの点を,「偽造通貨」というものが「通貨」の存在なしにはありえないことを引き合いに出して説明する.
ソームズはこの例に納得しない.国家が通貨を鋳造すると宣言して,実際には鋳造しなかった場合はどうだろうか.そして偽造貨幣のみが流通し,人々はそれが偽造通貨であると知らずに使用し,それが実際に持たないところの性質を帰属させるのである.ソームズは水槽の中の脳的な懐疑はこれに類すると考える.ライルはこれに対し,グローバルな懐疑シナリオにおいても,例えば,「かつて」脳は正しい知覚判断を行っていた,などと述べることができる.すると,上記の,すべての知覚判断が間違っているということはない,という主張は保持できる.しかし,それが懐疑論を反駁しているとは思えない,とソームズは考える.
知覚の性質
ライルにとって,木を見るということは,内的な生理学的あるいは心理学的状態ではない.
The question whether I have or have not seen a tree is not itself a question about the occurrence or non-occurrence of experimentally discoverable process or states some way behind my eyelids, else no one could even make sense of the question whether he had seen a tree until he had been taught complicated lessons about what exists and occurs behind the eyelids. (Ryle, Dilemma, pp. 100-1)
ライルがこう考えたもっともらしい理由は次のようなものであるとソームズは述べる.もしA is BがAの指示対象の本質的性質を伝えるとすると,この文は必然的真でなければならない.そしてもしこれが必然的真であるならば,アプリオリに真であり,概念分析を通じてアプリオリに知られなければならない.しかし,生理学的記述はもちろん概念分析を通じては知りようがなく,よってそのようなものが知覚の必然的性質を教えてくれるわけがない.このような推論は,必然性とアプリオリ性を切り離した現在は受け入れられないが,ライルの時代には,必然性,分析性,アプリオリな真実の関係性が方法論的な原理としてほぼすべての分析哲学者に受け入れられていたとソームズは述べる.
残りの議論はそれほど面白いものでもない.ここではライルがteliictyに関して述べている部分を例文の可能性として引用しておく.
But I could not say `I am at present solving this anagram’. Either I have now got the solution or I have not yet for it. In short, a log of biographical verbs like `find;, `see’, `detect’, and `solve’ share with a lot of other verbs of stopping and starting, which have no special biographical connotations, the negative property of not standing for processes taking place in or to things, or for states in which things remain (104)
ライルの『ジレンマ』に関する結語として,ソームズは三つの大きな短所を指摘する.
- 第一に,ライルのラッセル的論理分析の全面的すぎる否定
- 第二に,ライルの必然性,アプリオリ性と分析性の同一視
- 第三に,意味と言語仕様に影響を与えるの他の要素との区別のなさ(発言の不自然さから,意味内容の概念的な不適合へとは必ずしも推論できないのである)
第一の短所は,ラッセルを振り返ることで,第二第三のものはクリプキとグライスの研究に目を向けることにより解消されるとソームズは考える.
Soames, 2003, Philosophical Analysis in the Twentieth Century Vol. 2, pp. 82-91