統制機構としての言語1

スタンリー『プロパガンダの仕組み』の第4章 「統制機構としての言語(Language as a Mechanism of Control)」は,この本の中でも際立って良いので,ながながと紹介するに値する.

この章では,プロパガンダに利用される言語の特徴が議論される.プロパガンダは理想に関するものなので,まず,理想の一つとして,ロールズ的正当性(理にかなっていること,reasonableness)を導入しよう(本文では第三章で導入される).

スタンリーによると,正当性は,政策を提案するさい,その政策に影響を受けるすべての人にとって,政策が擁護できる(justifiable)ことを要求する.「合理性」(rationality)とは異なった理想であり,その事例として,スタンリーは次のようなものを挙げる.

わたしの家は代々地主で,わたしも大きな農地を相続しています.とても貧乏な隣人がいたので,こう提案しました.灌漑から植え付けから収穫まで,何から何までこの土地を使っていいですよ.報酬として年100円差し上げます.収穫物はわたしが売却して,500万円の利益を得ます.あなたは他には何も仕事がないんですから,これが一番いい選択肢ですね,と.

隣人に他の選択肢がないなら,100円程度で働いてもらうよう提案することが,利益を最大化するという意味で「合理的」である.だからといって,この提案が「道理だ」,「理にかなっている」とは誰も思わないだろう.相手の立場を考慮する,相手の身になって考えてみたとき,この提案は擁護できないだろう.

民主的な公共的対話において,正当性は重要である.スタンリーは,正当性がエンパシー(自分が立場の異なる何者かであると想像すること)を基礎として持つと考える.異なった視点と立場を,それらが正当である限りにおいて受け入れるのが,民主的社会である.

さて,正当性が,政策決定に関する公共的対話における理念(の一つ)だとしよう.すると,デマゴギーは,公共的対話への正当性を持つように見える貢献だが,実は正当性を損なうようなものである.正当性が守られるということは,他者に対するエンパシーが機能している.正当性が損なわれるということは,他者に対するエンパシーが機能していない.ということは,典型的なデマは,他者に対するエンパシーを失わせることがその役割である.つまり,「社会におけるある特定の集団は,われわれの尊敬に値しない」というメッセージを,典型的デマは伝えようとしている.人々に「あいつらの立場を考慮する必要はない」と思い込ませれば,どの立場からも擁護できるという正当性を損なうことができるのである.

言語的プロパガンダが可能だとすると,われわれが使う言語には,特定集団の視点を排除する役目を担ったものがあるはずなのだ.しかし,排除はおおっぴらに行われるわけではない.表向きは,あるいは本当に(genuinely),対話への貢献を果たしながら,同時に,特定集団を排斥するように対話を方向づけるような言語的仕組みがあるはずなのだ.排斥と,対話への適切な貢献を独立かつ同時に行う―このような一見相反する活動は可能なのだろうか.

もちろん,ここで,争点内容と非争点内容の区別が重要になるのである.単純に述べると,争点内容を通じて「ちゃんとした」対話を行いながら,同時に,非争点内容を使って特定の視点を排除するのである.「ちゃんとした」対話への貢献なのだから,簡単にそれを斥けることもできず,正当性を損なうメッセージが発信され続けるのである.

言語学者サラ・マリー Sarah Murray によると,非争点内容は一般的に,交渉の余地なく(not negotiable),直接抗議できず(not directly challengeable),スタルネカーの意味での共通基盤(common ground)へ付け加えられる.

英語の例は直観的でないので,日本語の事例を考えてみると,例えば

  1. A. 今日も暑いな.
    B. そんなことない.
     1. 今日はそんなに暑くないよ.
     2. 昨日は暑くなかったよ.
  2. A. あなたも遅刻したんですか?
    B. いいえ,違います.
     1. 僕は遅刻していません.
     2. 僕以外は誰も遅刻していません.

Bが1と続けるのは普通だが,2と続けるのはかなり不自然か,下手をすると意味不明だろう.マリーによると,前提や規約の含みはdiscourse referentを導入せず,なかなか指示し直すことが(そして否定したりする)ことができないとされる.細かなメカニズムを明らかにするのは大事だが,ここでの目的とは関係がない.とにかく,直接抗議できない,という特徴はこれで明らかだろう.

では,次は具体的に,どのような非争点内容が集団排除に利用されているのか検討しよう.

Murray, Sarah. “Varieties of Update.” Semantics and Pragmatics  7, no. 2 (2014): 1-53.

争点内容と非争点内容 At-issue content and not-at-issue content

スタンリーのプロパガンダ分析において中心的役割を果たすのは,近年広く受け入れられつつある,at-issue contentとnot-at-issue content の区別と,とくにその後者の言語活動における働きである.ここでは Christopher Potts の “Presupposition and Implicature” というサーベイ論文を基に,それらを区別してみよう.ポッツによると,“at-issue” という用語は,言語学者 William A. Ladusaw が1985年の授業で使い出したらしい.定訳ははあるだろうか.「中心となる内容」というものを見かけたが,とりあえず「争点内容」としておこう.

細かいことを言い出すときりがないが,「争点内容」と「非争点内容」の簡単な特徴づけは,以下のようなものである.

争点内容は,文や発話が持つ(に与えられる)基本的な意味内容とされる.フレーゲが「思想」と呼ぶものだったり,グライスが「言われたこと」と呼ぶようなものである.文の文字通りの意味,というふうに述べてもそれほど外れてはいないだろう.

非争点内容は,それ以外の内容といえる.それ以外とは「前提」と「含み」のことである.

前提とは,会話の参加者が少なくとも会話の目的のために受け入れていなければ,発話が意味不明になってしまうような情報のことである.

例えば,

  1. A. 今日も暑いですね.
    B. そうですね.

とやり取りをしているということは,「昨日は暑かった」,「おとといは暑かった」,「最近毎日暑い」といったことをAもBも受け入れている(少なくともそういうふりをしている).真冬にいきなり「今日も暑いですね」と言われたらびっくりしてしまうだろう.ここでは「も」という表現が効いているように思われる.「も」が前提を引き起こす表現(presupposition trigger)なのだ.

「含み」(implicature)と言われると,「会話の含み」(conversational implicature)を想定する方が多いかもしれない.「会話の格率」と呼ばれるような合理的な想定を用いて,話者がわざわざ実際に言ったことを言うことによって,一体何を伝えようとしているのか,推論される情報のことである.食卓で,「お醤油あります?」と聞いたならば,醤油の存在を確かめようとしているわけではないだろう.「お醤油をとってください」ということを伝えているのだろう.

会話の含みよりも最近よく議論されるのは,「規約の含み」(conventional implicature)の方である.スタンリーが利用するのも,規約の含みの方である.例えば,スタンリーはフレーゲの dog/cur の対比を引用する(ドイツ語のもともとの単語は書いてないので分からないが). ‘cur’ を,ニュアンスが違うがと思うが,とりあえず「犬っころ」としておく.フレーゲによると,「この犬が吠えた」という文と,「この犬っころが吠えた」という文は,その思想(争点内容)が全く同じである.もしその犬が関連する場面で吠えていたら文は正しいし,もし吠えていなければ間違っている.しかし,前者の「犬」は中立的な記述であるのに対し,後者の「犬っころ」は不快な連想を引き起こさせる.しかし,そうした連想や,侮蔑の態度といったことと,文の真偽は関係しない.前者が真なら,後者は真であり,「それは違う」と単純に反論したりすることができないのだ.

非争点内容と,影響力のある社会的言論との関係が,少し見えてきたかもしれない.非争点内容は,ある意味,「有無を言わさない」という特徴があるといっていいだろう.それは,通常の対話の中で,簡単に否定されないものである.もし非争点内容に蔑視・差別・特定の視点などが含まれていた場合,対話を始めるだけで,それに巻き込まれてしまうのだ.

社会的言論の前に,もう少し「規約の含み」の性質や事例を見ておこう.グライスから議論されている,‘but’ の事例は次のようなものである.

  1. シャキール・オニールはでかいけど早い.
    a. 争点内容:シャキール・オニールはでかい.かつ,シャキール・オニールは早い.
    b. 非争点的内容:でかいと普通動きが遅い.

「けど」を使うことによって,話者は,「でかいと普通遅いよね」ということを表現している.「でかくて速い」ということは「意外」なのだ.

同格の句の例は,日本語だとはっきりしないので,英語のままにしよう.

  1. Charlie, the pizza delivery person, is at the door.
    a. 争点内容:Charlie is at the door.
    b. 非争点的内容:Charlie is the pizza delivery person.

これらの非争点的内容は,どうして,会話の含みではないのだろうか.それは簡単に判別できる.

まず,そもそも,「規約の含み」というラベルが示すように,これらの内容は特定の単語や構文に依存しているが,会話の含みはそうではない.会話の含みは特定な単語や構文から「分離可能」(detachable)なのだ.「けど」という言葉の規約的な意味に,「意外性」が含まれている.これを「そして」に例えば置き換えても,同じ内容が生まれない.

一方,「醤油を取ってください」と伝えるのは,「醤油が合うだろうなあ」,「醤油がほしい」,「塩じゃ物足りないな」などなど,別の単語・構文を使っても,行うことが出来る.「会話」と「規約」の含みの対比に関して,これで納得できなければ,次の違いが説得的だろう.

次の大きな特徴は,規約の含みは投射されるが,会話の含みはそうではない,というものである.

  1. Charlie, the pizza delivery person, isn’t at the door.

と否定したとしても,非争点的内容は変化しない.内容が全体の構文から抜け出て,外へと投射されるのである.ところが,先ほどと同じ文脈で,「お醤油欲しくないです」,と言ったら,「醤油を取ってください」という内容にはならないだろう.

もっとややこしいのは,前提と規約の含みはどう区別されるのか,ということである.しかしその差異はあくまで言語学的な問題であり,社会的言説の分析の際にはどちらも重要になるので,とりあえず脇に避けておこう.

『プロパガンダの仕組み』How Propaganda Works

いつになってもおもしろい民主主義ジョークは「民主主義は民主主義を滅す武器を敵に与えた」なのだ.

ヨーゼフ・ゲッベルス

ジェイソン・スタンリーの『プロパガンダの仕組み』(Stanley, 2015, How Propaganda Works, Princeton University Press) は,言語哲学者にとって,非常に重要な著作である.

これまでも,スタンリーは言語哲学者として超一流と目されており,彼の主張に同意するにせよ批判するにせよ,言語哲学研究において誰もが目を通すような論文をいくつも書いてきた.また,キャリアの初期から,スタンリーは認識論へと研究の幅を広げ,(認識論者ではないので確かなことは言えないし,「超」がつく「一流」ではないのかもしれないがおそらく)とても重要な貢献を果たしてきた.しかし,こうした「重要さ」や「一流」という評価は,同じような研究をしている,いわゆるLEMMingsたちの間で設定されているものであり,LEMM(言語哲学・認識論・心の哲学・形而上学)への貢献度を述べているに過ぎない.LEMMに興味のない人にとって,スタンリーの貢献がうんぬん,と言われたところで,関係ないとしか言いようがなかっただろう.われわれLEMMingsも(少なくともその多くは,そして,少なくともLEMMをやっている間は),あくまで内在的にLEMMの枠内で議論を進め,こんな新しいことがわかった,こんな鋭い論証が出来た,などと言い合っている.LEMMには価値があると確信していながら,とりたてて,その価値をLEMMに興味のない人に売り込むようなこともしなかった.

ところが,この著作である.スタンリーは『プロパガンダの仕組み』の中で,言語哲学・形式意味論・語用論・認識論で培われてきた知見をフル活用しながら,少なくとも言語を介在するプロパガンダの仕組みを解明しようとする.ナチス・ドイツ,黒人差別などを題材に取りながら,どうして「効果的な」プロパガンダが生じるのか,ヒト言語の根本的仕組みに立ち入って説明を行う.

ヘイトスピーチ,デマ,誹謗中傷,そしてプロパガンダと,各国で政治的対立が深まっているこの時期に,それらが重要でないと考えるものはいないだろう.言語哲学は relevant(関係がある・価値がある)だったのだ.例えば,シャイアン族が話す言語の動詞の語尾を調べることと,共和党員の都市政策に潜むプロパガンダを暴くことが,なんと密接に関係していたのである.もちろん,シャイアン語の詳細についてスタンリーが議論するわけではないが,そうした基礎研究を踏まえた枠組みの中で,スタンリーはプロパガンダを検討する.

提案された分析そのものの妥当性などは,今後議論されていくだろうが,この本では,なんらの無理な「ストレッチ」あるいは「こじつけ」なく,言語哲学が社会・政治哲学へと応用されている.そもそも「応用言語哲学」なんてものが可能だということが示されたのだ.

この本を読むと,みんなもどんどん関心に応じて,得意技を活かして,社会議論に貢献していけよ,というメッセージをLEMMingsたちは受け取ることが出来るのだ.これは今後大きく影響力があるのではなかろうか.

?「日本手話では助詞を使わないことがある」?

3月9日付朝日新聞にて,「けいざい心話 ろう者の祈り」というおそらくは短期連載が始まった.ろう者の経済的な実情を描く優れたジャーナリズムであるように思えたが,ひとつ気になる記述があった.

手本として「今日は晴れでした」と書く.そして助詞の「は」を赤く囲った.ろう者の「日本手話」では助詞を使わないことがある.「ろう者の祈り1」

最後の部分を

(ろ)ろう者の「日本手話」では助詞を使わないことがある

とする.(ろ)は続く「ろう者の祈り2」でも現れた.

大筋の正しいメッセージは本文を通じて伝えられている.手話言語は自然言語の一つであり,日本語と日本手話は別の言語である.日本手話ネイティブの人は,第二言語としての日本語の読み書きに苦労することがある.われわれの多くが英語の読み書きに苦労するのと同じことである.これを伝えることは大事なことである.

(ところで「手話言語は自然言語の一つである」という主張は「地球温暖化は存在する」という主張と同じくらい自明なものである(はず)なので,ここでは何も述べない.)

よって揚げ足を取っているだけであるが,(ろ)をうまく解釈することができない.あるいは(ろ)は偽である.

まず,「助詞」とはなんだろうか.益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法改訂版』(くろしお出版1992,第9章)によると

名詞に接続して補足語や主題を作る働きをするもの,語と語,節と節を接続する働きをするもの,等を一括して「助詞」という.

とされているが,一方,注で,

文中での働きということから言えば,「助詞」として一括する強い根拠はないが,ここでは,慣用に従って「助詞」という品詞を設けておく.

とされている.例としては,いわゆる「てにをは」から,接続のための「と」「の」「から」「けれども」文末の「ね」「わ」「かしら」などなど,いろいろなものが挙げられ,実際,これらすべてに共通する性質はないように思われる.

つまり,「助詞」とは学校文法的カテゴリーで,自然種ではなく,かなり雑多な表現の集まりを指している.

さて,(ろ)に戻ると,これが,「ろう者の「日本手話」では助詞を使わない」ではないことに注意されたい.自然言語としての日本手話が,上述のような雑多な表現を一つも使わない訳はないからである.しかし,「助詞を使わないことがある」という特徴は,どの言語にも当てはまるように思われる.

  1. 今日天気いい?
  2. 「ううん雨〜

などといった日本語の会話には,少なくとも明示的には助詞らしきものが現れない.日本語でも,助詞を使わないことがあるのである.つまり,「ろう者の「日本手話」では」と述べることによって,日本語ではそうでないことを含意しているように解釈されるので,(ろ)は少なくともミスリーディングである.

もう少し好意的に(ろ)を読むと,主題を導入する提題助詞「は」が日本手話では使われない,というふうにも解釈できる.しかし,この解釈もミスリーディングであるか,偽である.

ここで大事なのは「手話」言語は,音声という様相を使わない言語,視覚という様相を使う言語として理解される,という点である.手の動きそのものは,視覚言語としての手話の一部でしかないのである.手話言語にはNM(non-manual)非手指要素が含まれている.眉や目の動き,頭や肩の動きなどが,多様な内容を表現し,特に機能的な内容を多く表現する.以前も述べたが,日本手話では,所有格が明示されないので,「私と妹」「私の妹」に区別がないように一見思われるが,例えば「うなずき」が同時に行われることによって,「私及び妹」という意味になる.

松岡和美『日本手話で学ぶ手話言語学の基礎』(くろしお出版2015,第3章手話の統語)によると,日本手話において主題を導入するNMは「眉上げ」と「目の見開き」であり,話題の要素の直後にうなずきが入るという.こうしたNMによって,どの構成要素が主題であるのか区別される.例えば

「パンは,田中が食べる」

「田中は,パンを食べる」

「パンを食べるのは,田中だ」

といった日本語文に対応する表現が,日本手話でも構造的に区別されているのだ.よって,NMを助詞のようなものだとすると,「助詞を使わないことがある」は間違いで,日本語や他の言語と同じように,「助詞は普通使われている」が正しい.

日本手話話者だから日本語を書くのに苦労する,のではなく,単に,日本語を書くのに苦労する,でよかったのだ.

意味の実在論1

本ブログでは,言葉の意味とは何なのか,言葉の意味とはこれです,あれです,という主張はそもそも成立するのか,といった問いに関する伝統的議論を少し検討している.この言葉の意味はこれです,などといった主張の正当性を疑問視する立場は,意味の反実在論,と呼ぶことができるかもしれない.

先日,意味の反実在論に関して,井頭昌彦氏に有益なコメントをいただいたので,そのうちのいくつかをすこしずつ紹介したい.井頭氏が記録を部分的にツイッター上に残してくれているので,それを利用しよう.

クワインは形而上学的な意味でも体系内在主義的な意味でも反実在論者だけど、「意味の実在論」と言われる立場を支持するためには、両方に反駁する必要はない。前者の意味での反実在論を認めつつ、後者の意味での実在論を支持することは普通に可能。ちなみに、チョムスキーはおそらくこの立場。(ツイッター)

これはどういうことだろうか.科学哲学分野には,科学的実在論・反実在論の論争がある.科学的理論あるいは科学全体をどういうものとして理解するべきか,にまつわる論争である.わたしが理解するラフな科学的反実在論の立場というものは,以下のような「ふつうの」科学に対する見解をなんらかの形で否定するような立場である.

科学理論とは真であったり偽であったりするものである.理論と独立に存在する何らかの事物を,正確に記述している,正しく表しているなら,理論は真であるし,そうでないなら偽である.

例えば,科学的反実在論者は,理論は真だったり偽であったりするわけではなく,道具のようなものであると主張するかもしれない.いろいろなことと整合的で便利である理論が「正しい」のである.

科学的実在論論争は,科学すべてをとりあつかうものなので,たいへんスコープの広いトピックである.一般的な言語学者(チョムスキー派であろうとなかろうと)が,そこにおけるなんらかの立場の成否にコミットする,あるいは責任を持つ(自らの理論がそれに依拠する)と考える方が不自然だろう.

(これは実はあまり正確でなく,多くの言語学者は哲学的素養がある.例えば,某ミニマリストはパトナムについて哲学でPhDをとって,そのまま言語学者として就職している.つまりむしろ言語学の学位を持たない.若い人物でも,学部や修士は哲学という人がいる.)

言語学者が想定するあるいは積極的に措定するなんらかの理論的存在者の「実在」は,それを含む理論の成功によって保証される.言語学者間そして隣接分野の研究者をまきこんで,言語学の理論の正しさが議論されていくのである.言語学者が,理論を提出する中で「意味の実在」にコミットすることは大いにありえるだろう.そしてその理論の正しさが検討され,理論が言語学・隣接分野で成功するならば,「意味は実在する」のである.

重要なのは,ゴリゴリの科学的反実在論者も,前段落の語りをすべて条件付きで肯定できる,という点である.言語学の中で理論が成功し「正しい」と認められ,理論が含意する存在者が「実在する」と述べることは,科学内部のディスコースとしてはまったく問題がない.平日言語学者としての活動と,週末哲学者としての活動は切り離すことができるのである.

「意味の実在」が,科学的実在論を肯定する意味で述べられているのならば,科学的反実在論者はそれを認めることができない.しかし,言語学者・言語哲学者は,科学的実在論を含意する意味で,「意味が実在する」と述べなくてもいいのである.

さて,では,科学的実在論・反実在論論争を切り離し,あくまで科学内部の議論として「意味の実在」について考慮した時,意味の実在論は正しいのだろうか.この問いについては後日検討しよう.

􏰨􏶠􏱊知っておきたい言語哲学「作用域」

おそらく続かないが,こういうことも試してみる.「いまさら聞けない」という文句と迷ったが,アマゾンで検索してみると,「知っておきたい」の方が圧倒的にヒット数が多い.

「作用域」とはなんだろうか.「作用域」は ‘scope’ の訳語で,そのまま「スコープ」と呼ばれることも多い.「「すべて」の作用域」といった具合に,なんらかの表現「の」作用域として使われる.Neale, 2000, “On a Milestone of Empiricism” を参考にしてみる.ニールによると,「作用域」という用語は,ホワイトヘッドとラッセルのプリンキピアよって広められた.(“On Denoting” では “occurrence” という言葉が代わりに使われていた.)

ニールは作用域を原始的な統語・意味論的概念(a primitive syntactico-semantic notion)であるとする (253).定義から述べてしまうと,ある表現の作用域は,その要素を構成要素として含む最も小さな複合表現である.

例を考えよう.一般的な述語論理の統語論的規則を想定する.例えば,~Fa という式は,模式的に,二つの構成要素をつなげる操作を^で表して,一かたまりの複合的な構成要素を[]で表すとすると,以下のようになる.

[~^[F^a]]

さて,~Fa における の作用域は ~Fa である.また,Fa の作用域も ~Fa である.そして,の作用域は Fa であり,の作用域も Fa である.

つまり,上の作用域の定義はすべての表現に当てはまる.「量化子は作用域を持つ」「真理関数は作用域を持つ」といった言い回しは,決して正確ではないとニールは考える(そして「オペレーターのみが作用域を持つ」と述べるのはそもそも間違いである.)これは非常に一般的な「作用域」の理解で,何か特別な表現だけが作用域を持つ,とかそういった恣意的な選択を導入する必要がない.ニールはこれが適切な「作用域」の概念であると述べる.

さて,こうしてみると,作用域とは純粋に統語的な概念であるように思われる.どういう構造があるのか,に依存して何が何を作用域として持つのかが決まるからである.しかし,この概念が「統語・意味論的」なものであるのもうなずける.というのも,形式言語では,統語構造から意味への接続は透明である.つまり,構造的部分が全体を作り上げていく手順を鏡のようにまねながら,意味的部分が全体の意味を作り上げていくのである.

a F もそれなりの意味を持っている.そして,の意味と の意味をつなぐ規則が存在する.その規則によって生まれた意味が [F^a] の意味である.[F^a] の意味と,の意味をつなぐ規則が存在する(同じ規則かもしれない).それによって生じた意味が [~^[F^a]] の意味である.形式言語において意味を合成するという作業は,[~^[F^a]] をなんとなく眺めて,どういう意味が適切かなあと推測する作業ではない.単に,構造通りに規則を適用していくだけの作業である.見方を変えると,構造が違えば意味も異なるかもしれない.作用域が異なれば意味も異なるかもしれないのである.よって作用域は統語・意味論的概念であると言える.

さて,しかしこのニール的(ラッセルーホワイトヘッド的)作用域の定義は一般的に過ぎると思われるかもしれない.結局,ある表現の作用域とは,それを直ちに支配するノードのことである.a, b という原子的要素があって,[a^b] があれば [a^b] が a, b 双方の作用域である.[a^[a^b]] とあるときの b の作用域も [a^b] である.「それを部分とする一番小さな複合表現」という構造に関する概念そのものが「作用域」という概念である.前者が分からなければ後者もわからないが,前者がわかっていれば,後者を別に考える必要はない.「作用域」というものは,理論家が構造について語るときにときどき使うラベルに過ぎないのである.

「作用域」が単なるラベルに過ぎないのなら,そのラベルが必要なときにしか使わない,というのも納得出来る.だから,頻繁に,「真理関数の作用域」,「量化子の作用域」というふうに用いられるのだろう.例えば,論理学の教科書では(Gamut vol.1 p 76)作用域を「Axp が式のとき,p は Ax のこの特定の表れの作用域と呼ばれる」と定義している.量化子が構造上のどこに現れるかが,全体の解釈に影響を与えがちだからである.量化子の位置関係について語ることが重要な場面が多い.なので,「量化子の作用域」について語ることが多くなる.

しかし,もちろん,上の考えに従えば,Gamut のこのような定義は間違っている.Ax^p があるとき,Ax の作用域は Axp 全体である.というのも,[[A^x]^p] だからである.そして,どうしてもGamut 定義を使う必要性があるわけでもない.量化子が複数現れる構造を考えて見る.例えば,[[E^x]^[[A^y]^p]] と [[A^y]^[[E^x]^p]] が存在するとしよう.[A^y]の位置が異なっており,それがどう全体の意味に貢献するのかも異なる.結局この構造さえわかれば,それを「作用域が異なるから」と語る必要は別にない.

以上,作用域の定義について少し議論した.論理学の教科書的な定義にしても,ニール的な定義にしても,少なくとも,作用域は統語構造に関する概念であることは間違いない.「スコープが...」「作用域が...」と語るときは,構造に関する性質を語っていることを注意したい.「意味が違うから作用域が違う」,「作用域が違うから解釈が異なる」などと語るのは,統語・意味の関係性について相当の前提を必要とするのである.

Neale, 2000, “On a Milestone of Empiricism”

Gamut, 1991, Logic, Language, and Meaning, vol.1

Rの覚え書き 5

scatterplot matrix というのは,基本的には,二つの変数の組み合わせをいくつもの変数の中から選んで表示する,というもののようだが,相関関係を見つけ出すためにそのプロットを横向き立て向き二つ表示するというのだ.

https://www.youtube.com/watch?v=kkhdpB4dNg0

ごくごく基本はここから.例えばA, B, Cと三つの変数があって,A-B, A-C, B-Cと三つのプロットが描けるが,それを倍にして6つのプロットを表示させる.x軸y軸を入れ替えたものを表示させるというわけだ.

heteroskedasticity という概念も導入された.ここではまっすぐではないパターンと説明されているが,どういうことか.

homoskedasticity 「等分散性」が欠けているとき,のようだ.

https://www.youtube.com/watch?v=zRklTsY9w9c

これまでのビデオとはうってかわっての難しさだが,なんとなくは分かる.とにかくデータをフィットして線を引くとき,間違ってる可能性・割合が変数に依存せず一定であるようなとき,パターンがhomoskedasticで,そうでないときheteroskedasticのようだ.

例の方が分かりやすいかもしれない.

https://www.youtube.com/watch?v=QlP25vfW0AA

給料と教育に相関関係があるが,heteroskedasticなものである,という例.

trellis graphics の trellis は格子.いまいちなぜそう呼ばれるのか分からない.

心理学用語だが,response latency は反応時間のこと.reaction time と変わらない.そして形態論における family size とは,形態論的要素を共有する語群の大きさのようだ.日本語では何だろうか.synset とは WordNet http://wordnet.princeton.edu/ においてほぼ同義表現として数えられているもののようだ.

https://www.youtube.com/watch?v=3VEzPbh3qBE

WordNetに関してこれが役に立った.

さて第2章の練習問題途中まで.

Zipf’s law https://www.youtube.com/watch?v=KvOS2MdKFwE

とは記述をみてもよく分からなかったが,出現回数(頻度?というと割合の気がするが「頻度」で回数も指すようだ)と出現回数ランキング番号1位,2位,3位...をかけたものが,一定の割合で減っていく.すなわち頻度はランクに反比例しているようだ.ログ・ログでプロットすると直線が浮かび上がる.

R. H. Baayen, 2008, Analyzing Linguistic Data: A Practical Introduction to Statistics using R

Rの覚え書き 4

第2章 Graphical data exploration

いろいろ統計知識をyoutubeで補う.まず percentile, quartile は

http://www.youtube.com/watch?v=Snf6Wpn-L4c

が短くてよい.要するにこれらはデータセットをある割合で分けたものである.quartiles ならもちろん25%ずつ.deciles なら10%ずつ.ちょうど50% quartile にあるデータは median.

box whisker plotも

http://www.youtube.com/watch?v=BXq5TFLvsVw

をみて分かった.長ったらしいが一緒にゆっくり手を動かす暇もある.「箱とひげ」ということだったのか.横に倒した方がひげっぽいかも,と思ったがそうでもないか.

上のビデオでは説明がなかったが,ひげは箱の長さの1.5倍とするようだ.なので「はずれ値 outlier」なるものが現れる.

センター試験以来の logarithm をちょっと思い出さないといけないが,とりあえずそれは distribution を歪めないためである,というところでいいだろう.

R. H. Baayen, 2008, Analyzing Linguistic Data: A Practical Introduction to Statistics using R

Rの覚え書き 3

なんとなく分かってきたので Baayen本 Ch1 練習問題をする.まず

head(spanishMeta, n=5)

でどんなデータフレームか見る.コラムは,

Author YearOfBirth  TextName PubDate Nwords FullName

のようだ.行数だが

nrow(spanishMeta)

nrow(spanishMeta[spanishMeta$TextName,])

でも同じ数15だったので前者でいいのだろう.

「それぞれの著者について,いくつのテキストがあるのか,そして出版年の平均を出せ」とあっていきなりわからない.15行なので,

spanishMeta[,]

で全体をみてもいいがそういうことではないだろう.まず

levels(spanishMeta$Author)

で値の種類をみてから,

nrow(spanishMeta[spanishMeta$Author == “C”,])

でその値の行の数だけ数える,ということだろう.

と思ったら,解答は

xtabs( ~ Author, data=spanishMeta)

であった.これで全部一気に出る.

続いて出版年の平均であるが,

mean(spanishMeta$PubDate)

ですべての平均が出るので,これを制限して

mean(spanishMeta[spanishMeta$Author == “C”, ]$PubDate)

などなどでCだけのデータなどが出るだろう.もっと賢いやり方は,

tapply(spanishMeta$PubDate, spanishMeta$Author, mean)

だろう(これはあっていた).1項めを,2項めのレベル・値に応じて3項目の関数を適用する,ということかな.

orderを用いた並べ替えも大丈夫.もただ,

sort(v, decreasing = TRUE)

で通常とは逆ということ.merge も要素数とか合わせずともそのままやればいいようだ.この練習問題で他に気づいたことは以下である.

== ではなく < にすれば「より以下」が指定できる.

length(x)

でxの要素数が出るので,xの平均は

mean(x)

でもいいし,

sum(x)/length(x)

でもよい.この練習問題はまあできた.

R. H. Baayen, 2008, Analyzing Linguistic Data: A Practical Introduction to Statistics using R

Rの覚え書き 2

R. H. Baayen, Analyzing Linguistic Data: A Practical Introduction to Statistics using R

第一章.一応コマンドをすべてまねして言われた通りの結果を計算するが,とてもではないがコマンドを理解しているとは言えない.練習問題ができそうにないので,他の tutorial もみながらやり直す.

data frame とは同じ長さの vector を並べたものである.表を考えて,data frame の vector 要素は一つの列とすればよさそうだ.だから

名前[a, b]

でa行目b列目の値を指定することになる.

名前[ , b]

でb列の要素,bベクトルの要素をすべて表示となる.列の名前bに$をつけると同じようにbの要素をすべて書き出す.

さて verbs には AnimacyOfTheme列があり,ここの二つの可能な値は animate か inanimate である(そしてほとんどが inanimate である).verbs$AnimacyOfTheme で901行分の animate/inanimateが羅列される.ここで verbs$AnimacyOfTheme == “animate” とすると,901行分の TRUE/FALSE が書き出される.==が同値の論理記号のようだ.これを使えば,animacyがTRUEの行だけ指定することができる.

verbs[verbs$AnimacyOfTheme == “animate”, ]

コンマの左,ということは行指定で,これこれが真であるような行,という意味であろう.直感的と言えば直感的かもしれない.これでとりあえず表の部分を指定することができる.

ちなみに,データフレームとともに説明なく出てくる head 関数は二項関数で

head(x, n=i)

xがデータフレーム,i番目までの行を提示する,というもののようだ.headなのは後ろのi番目までの行を提示する tail(x, n=i)があるからだ.