「進上」は二度海を渡った

金水敏著『コレモ日本語アルカ?偉人のことばが生まれるとき』(2014年岩波書店)は,以下のように結ばれ,それが印象的であった.

「進上」は二度、同じ海を渡って行き帰りした。むろんそのことを「進上」自身は知らず、またそれを使っていた人々もそのことを意識することはなかっただろう.(了)

「進上」とは,前漢の頃には成立していた漢語であり,日本語へと輸入され「進上する」といったように,広く用いられてきた.本書は,とりわけ満州で使用された接触言語について議論されており,この語もその一部である.日本兵の流入に伴い,当時の中国語にはすでに存在しなかった「進上」が,再び導入され,今でも,抗日映画・ドラマの中で日本語の一種として現れることが述べられている.

本書で語られる興味深い歴史や事例とは全く関係ないが,われわれが有することばの素朴存在論について考えさせられる結びである.

(ところで「素朴」という表現が意味するのは,前理論的に,われわれが有している常識・言葉遣いと適合する,というような意味合いである.例えば,「さびしいと泣いてしまうときがある」というのは正しい見解のように思え,それは「素朴心理学」の一部であると言えるだろう.しかし,「さびしさ」が,心理学や神経生理学の知見を踏まえたときに,自然種として残るかどうかは不明である.)

上記の結びのことばに,違和感を感じる人はいないだろう.「ある単語が二度海を渡る」その歴史的な数奇さは,心に残るかもしれないが,単語が海を渡るようなものとみなすこと自体は,極めて普通のことである.われわれの素朴存在論によると,ことばは徹頭徹尾外在的なものである.また,ことばを具体物とはしないものの,時空間を行き来しつつ,性質を変えながらも同一でありえるような何かと捉えている.

「...ということばは,もともと,...地方で使われて,...という意味しかもっていませんでしたが,今では...という風にも使われています」

といった語りもごく自然だろう.ある程度の意味の変化は許容され,同じことばとして考えられる.上の「進上」は,まさにそうした例だろう.

何かが同じことばである,と判断される大きな基準はその起源にあるようにも思われる.本書で挙げられている別の語彙に,横浜で用いられた「ぽんこつ」があるが,「現代語「ぽんこつ」とは別語」とされている.これらが本当の同音異義語であり,その理由は,由来が違うからではなかろうか.横浜ことばの「ぽんこつ」は「対象がダメージを受けること」も意味するとなっており,反事実的に,現代語「ぽんこつ」と似たような意味を有した可能性もあるだろう.そのとき,われわれはこれらを「同じことば」とみなすだろうか「違うことば」と見だすだろうか,直観は明らかでないが,後者の可能性も大いにあるだろう.

「ことば」の研究をする時,われわれのことばに関して持っている素朴イメージを意識することも大事だろう.「ことば」・「言語」についての主張は,いつでも曖昧なのであり,いらぬ誤解を招く可能性があるのである.