Paul M. Pietroski “Conjoining Meaning: Semantics Without Truth Values” の概要2

引き続いて、ピエトロスキ著『意味の結合:真理値なしの意味論』の著者概要をまとめる。注意書きは「1」におけるものと同じ。さらに、書籍本文を参考にわりあい追記しつつ書いている。勇み足も多いかもしれない。

Précis (http://www.terpconnect.umd.edu/~pietro/research/PrecisForCM.pdf)

4. 意味とはなにか(たぶん)

 本書では意味を「概念を構築する指令」(concept assembly instructions)とみなす。しかし、では実際どんな意味合成の操作があって、どのようなタイプの意味があるのか、ということに関して多くの可能性がある。タルスキ(そしてデイヴィドソン的)意味論では文の充足条件のみが特定される一方、フレーゲ・チャーチ(そしてモンタギュ的)意味論では、基本タイプ e と t からスタートし、再帰的定義によりいくらでも沢山のタイプが作られる。意味のタイプとはなにかという問いに対して、「1種類だけ」と「際限なくたくさん」という2つの極端な回答の可能性のみが歴史的に脚光をあびてきたのだ。現在の意味論研究はこの歴史的経緯に強く影響を受けており、人間についての探求という観点から十分に動機づけられているわけではない。
 意味タイプに関する本書での提案は、フレーゲ・チャーチ的なものではない。再帰的に導入可能なタイプは文字通り何百万と存在し、複雑さは同じなのに、スラングはそのうちのほんの一部だけをどういうわけだか利用する。たとえばフレーゲの「祖先関係」をわれわれはフレーゲから教わり、概念記法(やそれに類するもの)使って表現することができる。われわれにそういう概念を理解する力が欠けているわけでは当然ない。しかし祖先関係を直接表現する(たとえば動詞として)スラングの単語を導入することはどうやってもできない。フレーゲ・チャーチ的システムではそれができるのに、スラングにはできない。どうしてだろうか。スラングはフレーゲ・チャーチ的システムではそもそもないという理由がもっともらしくはないだろうか。本書第6章と7章では、教科書的に e タイプとみなされる固有名詞は述語である(フレーゲ・チャーチ的には <e, t>)と主張する。そして、他の教科書的に e タイプあるいは t タイプとみなされている表現に関しても、それらがそうしたタイプを担っているとする経験的証拠はほとんどないと主張する。
 ではスラングはどういうものか。本書の具体的提案は、ほとんどが単項の述語、そしてときどき二項の述語のみで構成されているというものだ。単項のもの同士、単項のものと二項のものを結合する2つの合成操作のみを措定する。それぞれM結合とD結合と呼ぶ。
 M結合(M-junction)とは、BROWN( ), COW( )といった単項の概念ふたつを結合させBROWN( )^COW( )という単項概念をつくる操作である。ここで x, y といった変項・変数が使われていないのは、変項を無限に導入した開放文が作れるタルスキ的言語よりもヒト言語が弱いと考えているからである。この操作は自動的・固定的なもので、2つのスロットを同一視するというだけの操作だ。
 D結合(D-junction)とは、M結合と存在閉包を組み合わせたようなものである。二項の概念として、何かが何かの上にある、ABOVE( , )とか、何かをされている何か、PATIENT( , ) とかが存在しているとする。これと単項概念をD結合すると、結果として単項概念ができる。結果を∃[ABOVE( , )^COAT( )]とたとえば書くとする。二項の概念の内項・右側のスロットと単項概念のスロットを同一視して、すぐに存在閉包をかける。これも、自動的・固定的な操作で、どの変項とどの変項を結びつけようかなあ、といった柔軟性がない。従来的な書き方をすると∃x[ABOVE(y, x)^COAT(x)]だが、これだと変項がいくらでも入れ替え可能なシステムだ―われわれがふつう述語論理でならうこと―との誤解が生じる。スラングがそうだという保証はないのである。スラングの複合表現、句とは、M結合とD結合を使っていくらでも複雑な単項の心的述語を作り出す指令である。たとえば、 ‘stabbed a colonel with a knife’ に対応する述語は(時制をとりあえずよけると)、STAB( )^∃[PATIENT( , )^COLONEL( )]^∃[DONE-WITH( , )^KNIFE( )] となる。本書では、こうした動詞句の出来事意味論だけでなく、真理に依拠しない形での文の意味、そしてそこから関係節を作り出す仕組みを提案する。そこからさらに多重量化についても高階のタイプ抜きで取り扱う。これら教科書的範囲をカバーするために、教科書的に使用される道具立てのほとんどは必要ないのだ。
 意味は真理条件ならぬ実行条件(execution conditions)を有している。実行条件は合成的なものなので、複合表現の意味論的値が部分の意味論的値によって決定される、などと述べてもいいが、それよりも、イケア家具の説明書と思ったほうがよっぽど正確である。「箱1の器具を使って箱4のこれと箱8のあれをつなげなさい。出来上がったものを、箱2の器具を使って箱5から取り出したやつにしばりつけなさい」といった具合である。スラングの単語に関連付けられている概念の外延は意味ではない。意味は概念を構築するための発音可能な指令なのだ(机を作るためのイケアの指令も知覚可能だ)。
 本書の最後の100ページほどでは、変項割り当て、複数形、数量詞繰り上げ、限定詞の保守性などの詳細を展開している。しかし、この概要の最後で強調したいのは、一つの語彙的意味が一つの概念に対応していると考えなくてもいいという点だ。語彙化の対象となっている概念そのものが意味合成の際にアクセスされている概念だと考える必要はない。もっともらしいどのような立場においても、とある概念Cを対象とした語彙化の際、Cとは形式的に異なるC*の導入が関わっているかもしれないとされる。フレーゲは論理学での興味深い概念をどのように新しく導入するのか教えてくれた。子どもも同様に、複雑な概念を合成可能にするため、語彙化によって形式を整えつつ単純な概念を導入しているかもしれない。
 真理や指示やコミュニケーションに焦点を当てるのは、意味の本性について理解する際邪魔になる。スラングが社会的に使用されるということはもちろんそうだし、その使用には価値がある。しかし、スラングが発音され外在化されるという点は、概念を構築するレシピを生成する手続きに、後づけされたやかましいノイズに過ぎないかもしれないのだ。

Paul M. Pietroski “Conjoining Meaning: Semantics Without Truth Values” の概要1

以下では、ピエトロスキ著『意味の結合:真理値なしの意味論』の、未刊行の著者概要をまとめる(Philosophy and Phenomenological Research にていつか発表されるそうだ) 。訳ではなくまとめだが、文章をそのまま使っているので自分のことばでのまとめというわけでもない(適切な「まとめ」ではないかもしれない)。4節まであり、まだ3節分しか書けていない。また、若干哲学者向けに書いているような気がする。形式意味論の専門家向けに、もっと具体的にどうするの?という部分はあまり前に出てこない。それも引き続いて紹介したい。が、とりあえず、というわけで。

Précis (http://www.terpconnect.umd.edu/~pietro/research/PrecisForCM.pdf)

 子どもは意味と発音 (手話語の動作ももちろん含む)を驚くべきやり方で結びつける言語を獲得する。本書は、この意味とはなにか、そして意味がどう人間の認知と関わり、一方で外在的な事物とどう関係し*ない*かについて議論する。スローガン的に提案を述べると、「意味とは、特殊な概念を構築するための合成可能なレシピだ」ということになる。 “green bottle” の意味は三つの部分を持った指令(instruction)となる。語 “bottle” を通じて概念にアクセスせよ、”green” を通じて概念にアクセスせよ、そしてそれらの概念を結合せよ(conjoin)、という指令だ。文を利用して、真偽を問えるような完全な思考を構築することができるかもしれないが、文自体は真偽を問えない。意味は外延を決定しないのだ。これら結論を擁護するのはもちろん簡単ではないが、それよりもまず、そもそも何について議論しているのか、その主題について考えてみよう。

⒈ Slangs 「スラング」
 「意味」は多義的なので(polysemous ポリゼミ―的、ということで、構造的な多義性や同音異義的とは限らない)こうした議論においてもお互い誤解するかもしれない。いずれにせよ、自然種としての意味があると思われる。また、「言語」についても誤解が生じがちなので、子どもが獲得可能なヒト言語をスラング(Slang)と呼ぼう。スラングの意味は単に合成的というだけでなく、説明を要する多義性・曖昧さ ambiguity を許容しつつ合成的である。たとえば、

(1) We watched her duck near a muddy bank.

はかなり曖昧(ambiguous)だが、”muddy” あるいは “near a muddy bank” を消去することはどのような読みを与えようとも許される。“duck” や “bank” には同音異義語があり、どっちにせよ曖昧なのだが、それにも関わらずこの消去はできる。
  スラングは発音と意味を不思議な仕方で結びつけるのだ。本書での主な主張の一つは、こうした曖昧さと意味合成は、人間の心理を反映した自然現象だ、というものである。関連して、意味が真理値、可能世界、理想化された概念の外延などと結びついているとやすやすと措定すべきではないと考える。
 第2章ではまず、概念の理論を提示する。それはフォーダー的なもので、概念は合成可能な心的表象であり、われわれはそれを使って外界の事物について考える。これはアリストテレス的論理学についての議論へとつながる。自然な推論においては、心的述語(分類するための概念)が特別な役割を果たす。”muddy bank” から “bank” を導くといった述語の削除(predicate reduction)は、連言肢の削除だという古い発想を擁護したい。本書の後半では、複合的な句が持つ意味は、心的述語を構築するための指令だという立場を展開していく。
 さて、本書の主題が何かという課題に戻ると、とりあえず話し言葉に限定しよう。そして「発音」についてもそれほど謎がないと仮定しよう。高音で喋っても低音で喋っても、同じ「音」を発声したと問題無くわかるとしよう。ただ、いわゆる「英語」が単一のスラングではないことも明らかだ。ブルックリンとかシドニーとか、地方によって発音はかなり異なる。同じ意味を表現するために違う音(“lift” vs “elevator”)を使いもする。違う発音でも同じ意味が表現されるということは、裏を返せば、地方によっては、同じ発音の「同じ」語でも違う意味が表現される。英語と呼ばれるような数多くのスラングがあるということで、少しずつ文法も異なる場合がある。英語話者になるということは、おおよそお互い理解可能といったかなり雑な形で特徴づけられる数多くのスラングの一つを獲得すること、と言えるだろう。

2. あいまいさ equivocality の種類

 語彙の特徴について、それらを組み合わせた句や文について語る前に検討しておきたい。語彙の重要な特徴は、ポリゼミーを有するということである。ポリゼミーは同音異義性から区別される。”bank” のように、異なる意味を持った別の語が発音を同じくすることがある。しかし “bear a tray of food,” “bear the pain”(「トレーを運ぶ」、「痛みに耐える」)の場合から明らかなように、 “bear” についてたまたま同音の複数の動詞があるとは考えず、同じ動詞に別の使い方があると考える。そしてこのあいまいさに統一的なパターンがあるわけではない。たとえば名詞 “book” は、具体物としての本だけでなく、書いたり伝えたりする内容としての本を表す。 “triangle” は数学における完璧な抽象物や具体的な黒板の絵を表す。あるいは、 “window,” “line,” “run,” “set” などについても考えてみるといい。どんなにゆるやかな同音異義性を想定しても、それだけでは説明できない。どのような語も一群の概念を指し示すことができる。
 単語/語彙 lexical items はほぼ常に概念的にあいまい(conceptually equivocal)だということを認めないといけない。ポリゼミ―は単にこの事実の一面に過ぎない。語彙の方の複合性をまず見ておく。たとえば単語 “fish” を考えよう。語根(lexical root)である √fish があるとすると、[√fish+CT] は単数の “fish” で、[[√fish+CT]+PL] はその複数形である。ただ、これがそのまま概念がどう獲得されるかに対応するとは限らない。概念の獲得の順番や種類も多様なものがあるだろう。FISH_ONE という加算の概念を先に獲得するかもしれないし、FISH_SM という不加算の概念を先に獲得するかもしれない(「ツナ」的な)。√fishを用いて双方の概念にアクセスするかもしれないし、概念を合成させ [FISH_ONE STUFF_ONE/SM]_SM という不加算の複合概念を持って、それにアクセスするかもしれない。とにかく、√fish は概念的に曖昧なのだ。
 単語レベルを超えて、句や文のレベルに移ろう。ここでも、あいまいさが重要になってくる。とくに特定の解釈が欠如しているというところが大事だ。

(5) a reporter phoned a solicitor from a small town.

には

(5a) A reporter phoned a solicitor, and the solicitor was from a small town.
(5a) A reporter phoned a solicitor, and the phone call was from a small town.

という文で表せる読みがあるが、

(5c) A reporter phoned a solicitor, and the reporter was from a small town.

という読みはない。どうしてだろうか。本書では、句の意味が単項的でなければならないと主張する。 “phoned a solicitor” という動詞句に動作主体のための変項は含まれない形で意味論を展開する。スラングの構造的多義性は厳しく制約されており、これと単語レベルでの恣意的な意味と発音の結びつきとは区別されないといけない。
 スラングそのものについてもう少し述べておくと、スラングは、発音と意味のペアを生成する、生物学的に実現された手続きだと主張したい。これはデイヴィッド・ルイスらの言語観と異なる。ルイスらは、言語が発音と意味のペアの*集合*だと考える。この立場によると、言語コミュニティが何らかの形で規約的に「選択」するそうした集合が言語なのだ。こうした外延的な言語理解は根本的に間違っていると主張する。少なくとも、言語を手続きではなく集合だと措定するべきではない。スラングの意味とは何か考えるとき、少なくとも、これまで記述してきた多様なあいまいさがどうして出てくるのか説明するような意味を提示しないといけない。

3. 意味とは何でないか

 上のような例以外を使って、意味と概念の関係について考えてみよう。本書の主張では、意味は概念を構築する指令なので、概念よりもさらに外在的な事物との距離がある。哲学者はこれを聞いて、パトナムの双子地球はどうなるのか、と心配するかもしれない。しかし、意味が概念的にあいまいならば、パトナム的事例は問題無く説明される。
 「水」という語を使って自然種概念にアクセスするというのは本書の提案と一致する。その自然種概念は、話者がどのような記述を思い描いていたとしても、H2Oそのものに適用される。そして、双子地球の話者は同音異義語を使い、XYZにのみ適用される自然種概念にアクセスするだろう。ここになんの不思議もない。
 そしてさらに、現実の「水」の使用を考えると、話者はそれを使って庭の井戸から出てくるものについて語ることもできる。そしてそこに含まれるH2Oの量は、コーラや紅茶のH2O含有量よりも少ないだろう。「水」という単語は少なくとも自然種概念以外のなにかの概念にアクセスするのだ。この概念はH2Oのサンプルを選び出すのではなく、機能などによって特徴付けられるだろう。双子地球の話者の「水」も、同じような概念と結びついているだろう。
 もちろん「水」や「星」を使って外在物の本性について語ることができる。そのために、話者と聞き手の世界観や持っている概念が一致していないとけいないわけではない。単語にはそれ以外の使用もあるのだ。ところで、「意味」というときも、スラングが発音と結びつける自然種概念にアクセスすることができるだろう。それについてわれわれは今議論しているのだ。
 概念*内容*の外在主義は、意味が概念を構築するレシピだという立場と相反しない。双子地球のわたしと現実世界のわたしは、おおよその場合、アップルパイを作るとき同じレシピを使っていると述べて差し支えない。レシピにはどんな具材が使われるのか多少の自由があるからだ。ただもちろん、違うレシピを使っている、と述べた方がいいときもあるだろう。たとえば、2つの場所で根本的にリンゴの種類が違うとしたらどうだろうか。化学をやっているときにも、双子地球のわたしと現実世界のわたしが同じ意味の同じ単語を使っているとは言わない方がいいかもしれない。これはアメリカ英語とイギリス英語の単語の違いと同じ現象に過ぎない(“solicitor,” “robin” など、「同じ」語が違う意味を持っていると考えられる)。意味についての内在主義者でありながら、自分の言葉と他者の言葉が同じ意味を有していると述べることはできる。単に、「同じ意味」だとか「よい翻訳」だとわれわれが言う、ということからただちに理論的な「意味」についてなにかを述べられるわけではないのだ。もちろん、言語が共有されているとか、とある言語を上手に話せる、という語りから、われわれの間に文の真理条件についての合意が存在すると考えたくなる気持ちはわかる。思考の構築するためのレシピがわれわれの間で収束するだけでは困る、と思うのかもしれない。そこで、本書の第3−5章では、スラングの文は真理条件を持たないと主張する。
 そこで展開される論証は古いアイデアをたくさん含んでいる。第3章はあらためて意味論で使われる道具立てを振り返る。フレーゲの論理学、概念記法の一階の断片に真理論を与えるタルスキのトリック、チャーチのラムダ計算を用いたタルスキの拡張などである。そして、第4章と第5章では、デイヴィドソンの仮説についての二つの問題を検討する。スラングに与えられる真理論がスラングの意味論になるという大胆な仮説のことだ。第一に、

(6) My favorite sentence is not true.

という実際にわたしがもっとも好きな文を考えると、スラングに対して正しい真理論をそもそも与えることができるのか疑わしい。第二に、異なる意味を持った文が真理条件的に同等となることがあるため、真理論が意味論の役割を果たすことができるのか疑わしい。どちらの問題も、決してそれ自体でデイヴィドソンの仮説がただちにご破算になるわけではないが、これら二つの問題を同時に対処できる方策はないと主張する。(6)のような文が真理条件を持つとすると、(6)が真なのはそれが真でないときかつそのときに限る、ということになる。こうした問題を前に、文が必ず真理条件を持つとは前提とすべきではないのである。
 別の種類の文も考えてみよう。

(7) Alvin chased Theodore around the tree gleefully.
(8) Alvin chased Theodore around the tree.
(9) Alvin chased Theodore gleefully.

(7)は(8)も(9)も含意するが、(8)と(9)の連言は(7)を含意しない。そこで出来事への存在量化が導入され、こうした文はデイヴィドソンの仮説を支持するはずだった。これらの文が真になるのは、ここで記述されている出来事が存在するからだと。しかし、たとえば

(10) Theodore chased Alvin around the tree gleelessly.

は全く同じ場面を記述しながら、正しい文となりうる。(7)も(10)も真で、gleefulかつそうでない出来事があることになるのだろうか。もちろん、ここでも多彩な修正案が想定可能だが、どれもうまくいかない。
 デイヴィドソンの仮説の擁護者は、具体例に取り組むと複雑になってくるのは仕方がない、と言うことになるが、いつまでたっても真理論が意味論になるという当初の約束が果たされない。詳細を検討すると、どんどん補助仮説が増えていく。出来事分析を真理論の一環とすることと、出来事分析を心理学の一環だとすることのあいだにはとても強い緊張関係が存在するのだ。言い換えると、デイヴィドソンの仮説は行為文についての事実を、形而上学と心理学双方におけるパズルにしてしまう。本書では、スラングの文は真理条件を持たず、デイヴィドソンの仮説は実り多いものだったが間違っていたと結論づける。

三浦俊彦教授のウェブ記事について3

引き続き検討する。なんの話かは「三浦俊彦教授のウェブ記事について1」を参照されたい。

以下の議論はかなり入り組んでしまって、あまり分かりやすくないと思われる。わたしの実力不足を引いても、もっと推敲されるべきだし、もっとなにか別のアプローチもあるだろう。(またここまで複雑にしてしまうと普通に間違いが入り込んでいるかもしれない。平謝りするしかないが。)とにかく、「論理学」の道具だてとか「哲学」における議論のスタイルなどをまともに・まじめに使い出すと、簡単に単純な話には収まらない、ということは実感してもらいたい。

われわれは、人の命がかかっている複雑な社会の問題を「斬る!」とかうたい、適当な議論をすることはできない、というのがレッスンだろう。

2ページ目に、

ここでもう一つ、近年の定説を三段論法で確認しておきましょうか。

①トランスジェンダーは差別されてはならない。 (←当たり前!)

②人を差別しないとは、当人が自認する属性のとおりに認めることである。 (←はあ??)

③したがって、MtFを女性と認めなければならない (←①②から確かにこれが導き出されますけどね!)

こうして、「MtFの女子更衣室使用、女子トイレ使用を認めない者は差別者である、トランスフォビアである」ということになってきた。

とあり、「三段論法」といった専門的に聞こえる用語を使っていることから、論理的に確かな議論をしているかのような雰囲気を読者は感じるかもしれないが、専門家の視点からすると、論理的な議論だとは言えない。

まずそもそも(これを非専門家に述べるとすると少し意地悪だが)使用されている日本語と想定されている命題の関係が雑である。「三段論法」でこの流れでおそらく想定されているのは、全称命題(雑には「すべてのSがPだ」という形で表されうるような命題)の推論だろう。つまり、「すべての」といった量を表す表現を名詞の前に置くべきであり、「トランスジェンダーは …」、「MtFを … 」といった日本語文ではその内容が明らかではない。この点が大事な理由は後でも議論するが、とりあえず、全称命題に読み替えないと三段論法自体が成立しないのでそうしておく。また、受け身形だったり、主語も明示されていなかったりして、極めて読みにくい。とりあえず、②、③は

②’ すべての市民 x にとって、x が人を差別しないなら、x は当人が自認する属性のとおりに認める

③’ すべての市民 x にとって、x はMtFを女性と認めなければならない
(すべての市民 x にとって、x が人を差別しないなら、x はMtFを女性と認める)
(すべての市民 x にとって、x がMtFを女性と認めないなら、x は人を差別している)

としておく。まず明らかに目立つのは、③’ から引用の「こうして」以下は隠された前提なしには論理的に出てこない、ということだろう。「こうして」以下を

④ すべての市民 x にとって、x がMtFの女子更衣室使用、女子トイレ使用を認めないなら、x は差別者である、トランスフォビアである

とする。②’, ③’ から ④ を推論するには、

⑤ すべての市民 x にとって、x がMtFを女性と認めるなら、x は MtFの女子更衣室使用、女子トイレ使用を認める

が必要になる。ここから、もし x が、「MtFの女子更衣室使用、女子トイレ使用を認め」ないなら、モーダストーレンスで、x は「MtFを女性と認め」ない、ということになり、③’ より、x は人を差別している、ということになる。

しかし、⑤はよくよく考えると何を言っているのか曖昧である。これは、再び、名詞をざっくり使い、その適用範囲などを明示しないことからくる問題である。要するに、日本語の使い方が雑なのである。「使用を認める」とは、一体いつ、どこで、どんな状況での話だろうか。制限をつけず、すべての、いかなる状況においても、という意味だろうか。そう解釈すると、⑤やそれに類する

⑥ すべての市民 x にとって、x が誰かを男性と認めるなら、x は その人の男子更衣室使用、男子トイレ使用を認める

は当然間違っている。たとえば、男性だろうがなんだろうが、会員専用のロッカーや自宅のトイレを、非会員や見知らぬ人に使わせなければならない理由はないだろう。工事中のトイレなどもそうだろう。あるいは、人物が公共の更衣室やトイレで迷惑行為などを働く場合、その人の施設使用を認めない正当な理由があるだろう。そもそも「性別」が公共の施設使用の必要条件でも十分条件でもないことは誰でもすぐに分かるだろう。

いずれにせよ、われわれだれもが同意するのは、

⑥’ すべての市民 x にとって、x が誰かを男性/女性と認め、その人がまったく害・迷惑を引き起こさず、特別な状況下でないならば、x は その人の男子/女子更衣室使用、男子/女子トイレ使用を認める

のような命題だろう。注意しなければならないのは、「もしちょっとでも迷惑をかけるようなら認められない」とは一切含意されないということと(それはいわゆる論理学での「裏」である)、実際誰かが「迷惑をかけない」かどうかということは一切述べられていない、ということだ(そんなことわたしにはわからない)。

これは、誰かについて、その人があなたにも誰にも一切迷惑をかけていないという仮想の状況を想像してみてください、その状況であなたその人を排除する理由ないですよね?と言っているわけである。「迷惑をかけられるかもしれない」とか、「迷惑をかけたらどうなるの?」というのはまったく別の話である。「あなたは一切いかなる意味でも迷惑をかけられない」という論理的可能性の話をしているのだ。それでも排除しますか?と聞いているのだ。

⑥’を踏まえて、④を考え直すと、

④’ すべての市民 x にとって、とあるMtFの人物について、その人物は一切なんの迷惑もかけないし、特別な状況があるわけでもないが、xがその人物の女子更衣室使用、女子トイレ使用を認めないなら、x は差別者である、トランスフォビアである

となるだろう。そして、これは正しいだろう。それがどのような意味であれ、「MtFである」という属性に帰属しているという以外の理由を一切取り除いているからである。とある人物について、その人がすること、したこと、物理的特徴などをまったく無視して、その人がとあるカテゴリーに属するらしい、ということだけをもって特別に扱う、というのは「差別」の基本的な特徴づけだろう。

三浦俊彦教授のウェブ記事について2

前回の検討でわかったことは、さも事実かのように述べられていることがらには、まっとうな根拠が与えられていなかったということである。参照されている北米の団体の調査を、もっともらしい理由なく恣意的に解釈していることがわかった。この点には二つ側面がある。

第一に、著者は、調査結果の信頼性などを問題にしているわけではなく、調査結果の一部を利用しつつ、その一部を否定するという極めて非合理的な態度をとっている(かのように見える)。繰り返しだが、(著者が引用する数字の中で)著者の言う「女性パートナーを求めている」に当たる回答項目の割合は27%である。しかし著者は、他の回答を与えた回答者の一部を、「女性パートナーを求めている」に当てはまるとする。つまり、この調査の回答に信頼性が特にないかのように振舞っているのだ。

もちろん、そもそも調査には信頼性がないと考える可能性は考えられる(そのためにはその根拠が与えられなければならないが)。しかし、そうするならば、27%という数字も当然疑わしくなってくる。なのに、著者は27%という数字は使用する。このあからさまな非合理性を著者に帰属していいのかがわからない。一つの可能性は、そもそもデータをまともに参照するつもりがなく、自分の想像に一致するように自由に改変しようとした、ということかもしれない。

第二に、ここでの参考文献の使用は、われわれ研究者・教育者が普段使用している水準とかけはなれている、ということである。レポートの書き方などを指導する際、第三者がチェック可能なソースを使うように、と口を酸っぱくする(戸田山著『論文の教室』など参照)。「ウィキペディアを見てもいいですが、そこで参照されている一次的ソースをみてください」などなど。アメーバブログへの url があることから、ひょっとすると、著者はネットで閲覧したこと踏まえて、ここで記述されていることを記述したのかもしれないが(まさか???)、それは当然、つまりは根拠が特にない、ということを示したに過ぎない。

根拠がとくに与えられないことがらをさも事実かのように述べる文章を、われわれは普段わざわざ検討したりしない。

これ以上私は進むべきだろうか。ここで問題になるのは、いわゆる “No Platform” 「演壇ノー」(ウォーバートン『表現の自由』入門など)であるべきところを、まるで理性的議論に値するちゃんとしたものかのように見せてしまうのではないだろうか、という不安である。

この不安はおそらくずっと解消されないが、いたしかたないので、次の機会にさらに議論を進めることにする。次のトピックは、文章の展開があからさまに非論理的である、ということである。隠された前提などを指摘していく。

 

三浦俊彦教授のウェブ記事について1

次の url に載っている(最終アクセス本記事投稿日)「【#木綿の天井】「レズビアンたるもの、相手にペニスあっても女だと思ってヤレ」世界で広がる狂ったLGBT議論を東大教授が斬る!」というTL上に回ってきたので(ものすごく気が進まないが)読んだ。目的は、「哲学者」や「言語哲学者」と名乗っている人間の一人が、その記事内容を批判している、ということを公的な記録に残すことである。

https://tocana.jp/2019/05/post_95219_entry.html

わたしには余暇がほぼないので、今回も時間切れだが投稿する。(そもそも余暇を使うべきなのだろうかとも思う。)今回は、ウェブ上で1ページ半の事実関係を少しチェックしただけで終わった。

まず1ページ目から、

ガラスの天井については、カナダの女性心理学者が「そんなものはない。昇進を望まない女性が多いだけのこと。個人の自由意思の表われを差別の証拠と曲解するな!」と主張していたりしますが――[1]、ともあれ …

となぜそれを含めたのかわからない部分があり、著者のことばを借りるなら、「「不穏な含み」を感じ取ること」ができる。

そして2ページ目にいきなり「性行動」や性的指向 sexual orientation についての話になる。性的指向の話をまずするのがさらに不穏だ。一般市民として生活をして、他の市民とやり取りをする中で、一番必要でないのが性的指向の話だろう。自分の性的指向など一生公的に話す必要がないと思う。友達とだってそんな話しないでしょ、たいがい。(媒体がそれを望んでいる?「性行動」について書かないといけない媒体?いやそれだけにも見えない。よくわからない。)

トランスジェンダーの性行動については、統計的研究はなされてきませんでした。それでも例外的な研究調査や、当事者による経験的実感の報告はちらほらあって[2]、それらを総合すると――、FtMかMtFかを問わずトランスジェンダーが求めるパートナーの性別は、女性が圧倒的多数だそうです。ある報告では、MtFが自らの性指向を記述する言葉は、〈バイセクシュアル〉20%、〈パンセクシュアル〉16%、〈レズビアン〉27%、〈クイア〉6%、〈アセクシュアル〉6%、その他6%で、〈ストレート〉は19%だけ。」

[2]http://www.transequality.org/sites/default/files/docs/USTS-Full-Report-FINAL.PDF

https://ameblo.jp/akemi-gid/entry-12443642881.html

引用されている調査は、 “The report of the 2015 U.S. Transgender Survey” というものだ。The National Center for Transgender Equality という NPO が作成したもので、28000人程度の回答者が得られたと述べられている。調査の手法や限界なども当然記述されているようだが、そこまで読む余裕がない。米国での一つの調査をとって一般化できるのだろうか?とまず思ったが、問題はそれではなかった。調査報告書の “Executive Summary” のど頭から

The findings reveal disturbing patterns of mistreatment and discrimination and startling disparities between transgender people in the survey and the U.S. population when it comes to the most basic elements of life, such as finding a job, having a place to live, accessing medical care, and enjoying the support of family and community. Survey respondents also experienced harassment and violence at alarmingly high rates. (p.4)

仕事とか、住むところとか、医療とか、家族や地域からの支援とか、市民生活を送る上でのごくごく基本的な事項がまず第一に問題になっていることが指摘されている。ハラスメントだけでなく、暴力被害などを受ける割合も高いと。こんな中なぜ「性的指向」の話がしたいのかわからない。

調査結果説明の最初に出てくる項目(figure 4.1, p.44)は、「トランス・ジェンダー」ということばを使用するのはそもそもどうなのか、という点だ。一体なにを意味しているのか、必要なのか、意見は必ずしも一致しないだろう。14%の回答者が “uncomfortable” の選択肢を選んでいる。自由に記述してもらうと、通り一遍の同一性用語だけでなく、500以上の語句を使って自身を同定したようだ。

comf.png

また、調査回答がまとめられている第4章の目次をみると、

I. Gender Identity and Expression
II. Experiences with Transitioning
III. Being Perceived as a Transgender Person by Others
IV. Outness
V. Race and Ethnicity
VI. Age
VII. Location
VIII. Primary Language Spoken in Home
IX. Religious or Spiritual Identity
X. Income and Employment Status
XI. Educational Attainment
XII. Disability
XIII. Citizenship and Immigration Status
XIV. Sexual Orientation
XV. Relationship Status

の順番で議論されている。指向性は14番目だ。少なくとも、たくさんある調べたり議論しないといけないうちの一つの項目に過ぎないことがわかる(優先度がどこまで低いかはわからないが、結構低いだろう)。

さて、ただ記事の性格上仕方がないので性的指向への回答結果を見てみる(p.59)。

comf2.pngこれをみても、これがどうして「FtMかMtFかを問わずトランスジェンダーが求めるパートナーの性別は、女性が圧倒的多数だそうです」という記述を正当化するのかわからない。この調査だけが正当化するとは書いていないが。(その他にどなたかのアメーバブログの投稿へのリンクが貼ってあるが???)たとえば、 “trans woman” と同定した人の回答で、 “gay, lesbian, or same-gender-loving” が27% となり、「圧倒的多数」の意味がわからない。次の根拠が明示されない主張がその根拠となっているようだ。

 バイのMtFはパートナーとして女性を求める傾向にあるそうなので、〈アセクシュアル〉〈ストレート〉を除いた75%のMtFのうちかなり多くが女性パートナーを求めていると見ていいでしょう。

まず根拠が与えられないので受け入れようがない。しかし、そもそも75%の「かなり多く」がどれくらいかわからないが、例えば60%だとすると、45%となり、それに上の19%を足しても64%となる。まだ3分の2に届かない。75%の80%で60%、それに19%を足して79%これでやっと「圧倒的多数」だろうか。こんな意味のない計算をしながらこの部分を書かれたのだろうか。わたしにはわからない。

「哲学者」とか関係なく、教育関係者の人間として、前提の事実確認をしないと話が進まない。そして確認をしてみると、話が進まないことはよくわかった。これで終わってもいいと思うが、またそのうち続きを書こうと思う。

「ヘイトスピーチ」の「ヘイト」の部分

「ヘイトスピーチ」と通常呼ばれるような現象を「HS」と呼ぼう.HSは,日本語としての「スピーチ」の通常の用法からはだいぶ外れた現象であり,わざわざ「スピーチ」と呼ぶ理由がないことを前のポストで述べた.次に,「ヘイト」の部分を考えてみる.

「ヘイト」という語はHSの文脈以外であまり使われないように思われる.KOTONOHA 少納言でも「かわいさに夢中,ラブアンドヘイトの新作ハートリング」とかそんなのしかなかった(あとは「アパルトヘイト」).

HSの文脈以外での日本語としての「ヘイト」の語感,などそもそもなさそうなので,ここは Jeremy Waldron 2012 The Harm in Hate Speech (Harvard University Press) での議論を紹介してみよう.Waldron は,

ヘイトスピーチ」ということばを使うのを完全にやめたほうがいいんじゃないだろうかと思うときがある.(p.39)

と述べている.それにはいくつか関連する理由があるとされる.

まず,ヘイト・憎悪とは感情のことなので,HSの問題は人の感情や態度の問題であり,HSの規制とは態度やあるいは思考を規制することになる,という誤解を生んでしまう.しかしHS規制は感情の規制などではない.

この点はヘイト・クライムと比較すると明らかになる.ヘイト・クライムは,確かに人の差別的な感情や態度や思考の問題である.それらが動機(の一部)となって犯罪行為を引き起こしており,その犯罪がより悪いものとする理由となる.動機としての憎悪にヘイト・クライム法は焦点を当てる.しかし,HSの規制が問題とするのは,HSが引き起こす結果としての憎悪である.HSを行う側の態度や思考はどちらかというとどうでもいいのである.HSが生み出す憎悪により,ターゲットがまともに市民として住めないような環境が醸成されるのを防ぐために,HS規制は行われる.何を思っていようがかまわないから,とにかくHS活動はやめてくれ,というわけだ.

動機と結果の区別をちゃんと立てても,まだ問題はあるとWaldronは続ける.

HS規制とは,「結果としての憎悪の規制だ!」などと思われるのも難点がある.そうすると,そもそも憎悪ってなんだね?どっからどこまでが「いけない」感情でどこまでは「問題ない」の?恣意的にしか線引できなくない?憎悪とは本質的に悪いの?不正を憎むとかあるじゃない?といったように急に神学的な話になりかねない.しかし,HSの規制論者は憎悪そのものを問題にしているわけではそもそもない.HSのターゲットとなる主にマイノリティの窮状に関心があるわけであり,それと切り離して憎悪そのものに関心があるわけではない.憎悪を規制したいわけではなく,市民が住む環境の話をしているというわけだ.

もう少し何か言えるような気がするが,以上のような議論はある程度説得力があるように思える.

するとやはり,HSを「ヘイトスピーチ」と呼ぶのは不適当であるとする根拠はありそうだ.「珍走団」のような代替の用語が提案されるべきだろう.

「ヘイトスピーチ」という語は軽いか?

ここでは日本語としてもちいられる「スピーチ」ということばを考えたい.英語の speech の意味については(もちろん関連があるが)問わない.また「ヘイト」の部分も考えない.いわゆる「ヘイトスピーチ」と呼ばれる現象をHSと呼んでおこう.HSを「ヘイトスピーチ」と呼ぶのはあまり適当ではない可能性を検討する.HSなんて「表現」でもなんでもない,というおそらくよくある指摘を考慮してみるということである.

(言語哲学者へのノート:以下は外在的にことばがこうなっている,と述べているのではなく,むしろ逆で,そんなものはないからこそ,ことばの当てはまる対象についての社会的な交渉を行っていると考えている.Ludlow Living Words 参照.)

日本国語大辞典第二版をみると,「スピーチ」とは

会合の席などで、大勢を前にしてする話。談話。

とあり,補注として

明治時代には、公衆の前で自分の主義・主張・意見を述べる「演説」の意味で用いられたが、現在では、祝いの席などでの寸話をさすことが多い。

とある.およそこの解説が正しいようで,KOTONOHA 少納言で用例を数十個みた感じでも,結婚式でのスピーチ,校長先生のスピーチ,あるいはもっと軽い挨拶,そして演説の類を指しているように思われる.

そうした(まじめな,ためになる,楽しい,くだけた)「お話」である「スピーチ」は少なくとも一般的に命題的な文の発言が多く含まれているだろう.「命題的な」とは「真だったり偽だったりする」という意味で,例えば,「東京都の人口はシンガポールの人口よりも多い」といったものである(これが正しいのか間違っているの知らないが,どちらかだろう).「んぎゃー!」とか「帰れ!」といった非命題的な何かと対比されている(「んぎゃー」がことばかどうか疑わしいが,口から音を出していることには変わりないだろう).非命題的なことばがスピーチの中に含まれてはならない,ということはないだろう.しかし,例えば会社の上司のスピーチがすべて命令形などで済むだろうか.

「本日はお日柄もよいため,スピーチは短くしよう.さあ祝え!飲め!」

これで済めばいいのにな,と多くの人が思っているだろうが,これがそもそも「スピーチ」なのかも疑問だろう.「A部長は実際はスピーチしなかったんだよ」と報告できるかもしれない.というわけで,「スピーチ」の必要条件として,命題的文がそれなりの割合で含まれ,それが主張として提示される,というものがあるだろう.

また,スピーチにはある程度構成が必要で,それぞれの命題的文がなんらかの関連を持つものとして提示されているだろう.主張の根拠や前提としての文,伝えたい主張や提案の文,あるいは物語や思い出を述べているとすると,それらが時系列で並んでいるかもしれない.結婚式のスピーチなどでも,「大学時代に...」「なので...はすごくいいやつです」といった文が並ぶ.

スピーチの構成要素のことばやその関係についての条件を「内的」な条件と呼んでおくと,HSが内的条件を充たすと考えることはかなり難しい.命令形,「〜しよう」といった意志形,そして差別表現や卑語の単独での使用が多いからである.また,「〜するよ」「〜するぞ」といった終助詞で終わる場合もある.こうした終助詞をどう分析するかはいろいろ可能性があるだろう.また,もちろん,「〜はーだ」といった総称文も含まれてくるので,命題的な文がないとはいえない.しかし,それに対する根拠となる文を述べてみたり,論理的に推論してみたりすることはないだろう.よって,内的な条件を充たさないため,HSをスピーチとは呼べないことが多いだろう.

スピーチの「外的」な条件は,誰が誰にどんな状況でどんなふうに話すのかといった項目だろう.

まず,そもそも,デモ行進・あるいはお神輿を運ぶように街をねり歩くとき,スピーチは可能なのだろうか.もちろん空間を移動しているからだめ,というのは,船上や機上でスピーチができることを考えるとそんなことはないだろう.しかし,歩き回る,ねり歩く,といった行為を主に行っている人が,スピーチ「も」することは可能なのだろうか.しかし,もちろん,立ち止まり,簡易的にステージなどを設置する場合もあるかもしれない.

スピーチの話し手に関する制約はほとんどないように思える.オウムや犬はダメだろうが,子供だってスピーチはできる(子供が親にうながされHSを与える話は胸が潰れそうになるが).聞き手はどうだろうか.聞き手が一人ないし二人しかいない場合はスピーチができるだろうか.できなくもない気がする(わたしのような下っ端にはよくある経験ですらある).人数の多少はそれほど重要な条件ではないだろう.人数よりも,話を聞いているかどうか・聞く意志があるかどうかの方がややこしそうだ.

地下鉄に乗っているとする.一人の男性が乗り込んできて,車両いっぱいの人びとに地球温暖化に関するさまざまな主張を大声でわめきだしたとする.少なくとも次の駅までだれも降りることができない.耳も塞げず,ことばが母語であるがゆえに,自動的に・強制的にその内容が理解でき,頭に入ってくるとする.これは「スピーチ」だろうか?よくわからない.

ただHSはターゲットでなく,HSの仲間を聞き手とみなす,と抗弁することがいつでもできるだろう.

以上を踏まえると,スピーチの外的な条件の方が,HSにとって充たしやすいといえるだろう.

まとめると,HSはわれわれが普段使っている語感での「スピーチ」における,環境に関する外的な条件を充たす場合はままあるが,ことばに関する内的な条件を充たす場合は少ないだろう.するとHSをわざわざ普通の語感に反して「スピーチ」と呼ぶ理由は特にないだろう.

代替案はいいのが思いつかないが,「珍走団」のような何かしっくりくるものを広く募るべきかもしれないし,HSの使用者を馬鹿にするような名称がよくないなら,テクニカルタームを使うべきかもしれない.

ことばの力とは何か

ことば,言語に力があることをみんな認めている.誰もが予想していなかった選挙の結果のあと,ツイッター上などでの人びとのつぶやきも,ヘイトスピーチやポリティカルコレクトネスに対する言及が増えており,ことばの持つ力への関心の高さがうかがえる.

しかし,しばしば「ことばの力」の意味が誤解されている,あるいはその範囲が低く見積もられているようにも思われる.「ことばの力」と聞いて,みなはどのように解釈するだろうか.

一つの解釈は次のようなものだろう.

ことばは意味やら情報やらを担っており,それを広く伝達することにより,多種多様な結果が生まれる.例えば悪い考えを広めたり,特定のグループを排除したり,特定の人を傷つけたりすることができる.ことばは「影響力」を持っているのだ.ことばの不注意な運用がもたらす帰結をよくよく吟味していかないといけない

この考え「も」正しいだろう.しかし,これはことばの因果的な力にのみ焦点を当てた「ことばの力」解釈である.

言語哲学者兼カント哲学者兼フェミニズムの哲学者レイ・ラングトンは,言語行為論や語用論における概念を,われわれの間に存在する問題含みの表現に適用してきた.代表的なものはポルノグラフィーとヘイトスピーチである.

例えば、ラングトンは,ポルノグラフィーは因果的にいろいろな悪影響を与えるからという理由のみによって規制されるべきなのだろうかと問う.確かに,出演者への影響、消費する子供や大人への影響,そうした帰結に応じて,社会の中で制約が課されていくのは当然だろう.そして,実際にポルノグラフィーがどのような因果的力を持つのかは純粋に経験的問題であり,社会科学者たちによって検討されなくてはならないだろう.

しかし,ラングトンは,その因果的力が何であれ,ポルノグラフィーという表現はそこで描かれる特定の集団(多くは女性)を「従属させる」(subordinate),という言語行為そのものであると分析した.

オースティンの発語媒介行為 perlocutionary act と発語内行為 illocutionary act の区別が重要だとラングトンは指摘する.

この区別を理解するために,たとえば,

(1)あいつを殴れ.

と発話することによって,話者は何をしているのか考えてみよう.誰かが殴られて怪我をする,という結果が生まれるかもしれないが,そうでないことの方が実は多いかもしれない.冗談を言っているだけで,笑いが生まれるかもしれない.そこで,ここでは,話者は(1)と述べることによって,誰かに誰かを殴らせる,誰かを笑わせる,そうした結果を生むようなことをしている,と考えることができる.

言うことによって,何かを引き起こすようなことをする.それがオースティンの発語媒介行為である.発語を媒介として何かを達成するのだ(「説得させる」ということを達成したのかもしれない).

しかし,(1)の発語は発語媒介行為という特徴づけに尽くされるだろうか.たとえば「誰かに誰かを殴らせるという行為」とだけ特徴付ければそれで十分だろうか.

そんなことはないだろう.(1)の発話で,話者は人を殴るように「促した」のかもしれないし「アドバイスした」のかもしれないし,「命令した」,「教唆した」のかもしれない.状況・立場などによってどう特徴付けるべきかは異なるだろう.それによって話者の責任を問うこともできるだろう.いずれにせよ,(1)の発話は,その発話を特定の状況で行うことが,ある種の行為そのものと特徴づけられるだろう.発話が原因で特別な何かが起こる,というだけではなく,その発話そのものが特別な何かなのだ.その何かを,発語内行為とオースティンは呼ぶ.「約束」,「命名」などが典型例としてよく挙げられる.

さて,ラングトンは,ポルノグラフィーは発語媒介行為として,いろいろな悪影響・悪い結果を因果的に引き起こすかもしれないことをもちろん認める.しかしそれだけではなく,ポルノグラフィーは発語内行為として,「従属させる」(subordinate)という行為そのものなのであると主張する.

「従属させる」がどういう行為かというと,「ランク付け」(rank)を行い,差別的行動を「正当化し」(legitimate),そして権力を「剥奪する」(deprive)という三つの特徴があるとラングトンは考える.

もしこうした行為が何らかの意味で「悪い」ことならば,ポルノグラフィーは「悪い」だろう.そしてその悪さは,その発語媒介的結果とは無関係なのである.

こうした分析を,ヘイトスピーチ,蔑称などに当てはめていくことは,ポルノグラフィーに対してそうするよりも簡単かもしれない.ポルノグラフィーはそもそも表現なのか,発話なのか,もしそうだとするとどういう意味でそうなのか,といった問いを考えなくてもいいからである.

さて,もし「土人」といった蔑称を使用するということは,単に何らかの情報・意味を担った音声を発することではない.それは何かをしているのだ.例えば,集団のランク付けを行い,ある集団に対する特別な扱いを正当化しているのかもしれない.それが許容される行為なのかどうかが問われなければない.そうでなく,単に発話の結果のみに焦点を当てるのは,ことばの役割・力を低く見積もっているといえるだろう.

また,ことばの結果としての力にとらわれると,ことばを引き起こす力にもとらわれるのかもしれない.あるいは,ことばを振るうものの力・権力ばかりに目がいき,ことばそのもの力を過小評価してしまうことにつながっているのかもしれない.この点はまた回を改めよう.

統制機構としての言語3

スタンリーの議論のまとめを続ける.

ことばの非争点内容は,有無を言わさず,「交渉の余地なく」共通背景に押し付けられる.そして,いろいろなことばの内に,支配者する側のイデオロギーが非争点内容として反映されているとしよう.例えば,被支配者層には犯罪者を作り出すような文化がある,といった内容である.この内容自体は法外なもので,もしそれを端的に提示されれば拒否するとしても,プロパガンダが巧妙なのは,それが非争点内容として現れるというところだ.非争点内容として密輸される以上,支配者層のイデオロギーを簡単に批判したり,退けたりすることが非常に困難になる.支配者層の発言を肯定しても,否定しても,イデオロギーを受け入れることになってしまうからである.

これは,典型的ないわゆる「前提」の事例を考えてみるとよく分かる.

  1. お,田中さん,タバコ辞めたんですか?

に対して田中が,

はい.そうです.

と答えても,

いいえ,辞めてないです.

と答えても,タバコを吸っていた(る)ことを認めることになるだろう.「タバコ辞めたんですか」と質問する人は,田中という人物が,タバコを吸う習慣があったことを前提として話しかけている.(1)を立ち聞きした人は,田中はタバコを吸ってたあるいは今でも吸うんだな,と思うだろう.もちろん,タバコを一切吸っていないのならば,「はい」で「いいえ」でもなく,話を切り返さなくてはならない.

2. え?ちょっと待って下さい.そもそもタバコ吸わないので,何か誤解があります.

といった返答がもちろん可能だろう.(1)と(2)のやりとりをする人物がまったく同列の立場にあり,それぞれの発言が均等に尊重されている場合,このような誤解に何の問題もない.しかし,(1)と述べる人が,田中よりもはるかに立場が上だったとしよう.田中はどこまでそれに抵抗できるだろうか.(2)と返すことは失礼に当たるかもしれない,いきなり「あなたは間違っている」ということを指摘できるだろうか.面目を潰せば,あとから意趣返しを受けないだろうか.「へへへ」などと適当に田中はことばを濁すかもしれない.では,(1)を繰り返し述べれば,もう田中が喫煙者であることは一種の既成事実として誰もが認めることとなってしまう.

(1)のような単純な質問ですら,それに真っ向から立ち向かうことは難しいのかもしれない.では,系統だった政治的圧力に対して,被支配者層が立ち向かうことの困難はいかなるものか.

支配者層は,被支配者層を,自分たちは劣っているという主張を受け入れなくては,そもそも議論に参加できないような立ち位置へと追い込むのだ.(p. 162)

こうしたプロパガンダは,被支配者層を「従属させる」という言語行為なのである.プロパガンダがうまくいけば,攻撃対象に対する悪しきステレオタイプを拡散することができ,対象は劣等であり,信頼すべきではない,平等の考慮に値しない,ということを受け入れさせることができる.

繰り返しであるが,プロパガンダの有効性は,非争点内容を利用して間接的にイデオロギーを拡散するところに由来する.「黒人は怠け者だ」と端的に主張し,それに対する根拠を提示し,大衆を説得しようとするまっとうな政治家などいない.誰も「黒人は怠け者だ」などとは言ってはいない.言ってなければ文句を言われる筋合いもない,わたしは単に「都市部の貧困層の問題」について議論しているだけなのだ,というわけである.

ここで,極めてタイムリーな発言が思い起こされる.

3. 現場で一生懸命働いている機動隊に勤務ご苦労様だというのは当然だ.

という大阪府知事のこの発話の通常の意味的内容は,一切問題がない.これはいわゆる総称文の一種で,一般的に,AはBだ,と述べているに過ぎない.「犬は吠える」というのと同じで,一般的に,現場で一生懸命働いているサラリーマンの勤務をねぎらうのは,もちろん「当然」だ.

しかし,文字通り「言ってはいない」ということが何の言い訳にもならないことは対黒人のプロパガンダを考えれば明らかである.文字通りの意味と言語行為の関係は複雑であり,ある文の文字通りの意味よりも,それを発話して何をしているかがより重要だからである.

大阪府知事の言語行為は何なのか,そしてそれは民主主義国家で許されるものなのか,これらにどう答えるかは読者に任せたい.

統制機構としての言語2

非争点的内容 not-at-issue content とは,有無を言わさず,会話の担い手が少なくとも会話の中で認める背景知識のようなものに影響を与える.スタンリーの提案は,自由民主主義におけるプロパガンダの特徴とは,通常の内容としては理にかなったことを述べていながら,非争点的内容を通じてそうではないことを伝え,陰湿に自由民主性を損なうというものである.

ではまずどの単語のどのような内容がスタンリーの念頭にあるのだろうか.

「福祉」にあたる “welfare” という単語に関して,スタンリーは次のように述べる(p.158).

ニュースメディアが都市部の黒人の映像と “welfare” という単語の言及を関連付けるとき,“welfare”は「黒人は怠け者だ」という非争点的内容を獲得する.

「黒人は怠け者だ」のような内容は「社会的意味」(social meaning)と呼ばれ,法理論の枠内などで検討されてきたとされる.例えば,婚姻制度は社会的意味を持つとされ,配偶者同士経済的に協力する,という内容が含まれる.単語ももちろん社会的意味を持つ場合があり,例えば「賄賂」という単語には,その金品のやり取りが「なされるべきではない」という内容が含まれている.スタンリーはそれと同じように, “welfare” という単語にも,総称文によって表現されるステレオタイプが社会的意味として関連付けられていると述べる.

70年台,シカゴ・トリビューンがとある犯罪者を高級車を乗り回す “welfare queen” (日本風に言うならば)「生活保護の不正受給女王」として記事に書き,レーガンが選挙中に,15万ドル以上を「荒稼ぎ」する「生活保護の不正受給者」としてこれをとりあげた.実際のところ,この収入は強盗によって生み出されたもので,生活保護でそれほどもらえるわけもないが,この都市部(inner city)の黒人である“welfare queen” というイメージは,アメリカでの社会保障制度にまつわる議論において欠かされないモチーフとなった.そして,ある程度の年齢の人物すべてが, “welfare” という単語を耳にするだけで,「都市部の」「黒人の」 “welfare queen” が頭に浮かぶようになっているのだ.

アメリカにおける “welfare” の普通の意味としては,いろいろな社会保障の「制度」を指すに過ぎない.しかし,上記の社会的意味によって, “welfare” を用いるだけで,黒人について,ある意味,語らずとも語ることができるとスタンリーは考える.例えば,共和党(現在下院議長の)ポール・ライアンが,社会保障制度は都市部における “work ethics” や文化における問題を作り出し,貧困層を生み出してしまう,と訴えた.しかしこれはすぐに別の議員に指摘されたように,「都市部」や「文化」は,「黒人」の言い換えに過ぎない.アパラチア地方の白人貧困層は非常に深刻な問題を提示しているが,白人貧困層に対して文化的問題がある,とは主張しないだろうからである.