?「日本手話では助詞を使わないことがある」?

3月9日付朝日新聞にて,「けいざい心話 ろう者の祈り」というおそらくは短期連載が始まった.ろう者の経済的な実情を描く優れたジャーナリズムであるように思えたが,ひとつ気になる記述があった.

手本として「今日は晴れでした」と書く.そして助詞の「は」を赤く囲った.ろう者の「日本手話」では助詞を使わないことがある.「ろう者の祈り1」

最後の部分を

(ろ)ろう者の「日本手話」では助詞を使わないことがある

とする.(ろ)は続く「ろう者の祈り2」でも現れた.

大筋の正しいメッセージは本文を通じて伝えられている.手話言語は自然言語の一つであり,日本語と日本手話は別の言語である.日本手話ネイティブの人は,第二言語としての日本語の読み書きに苦労することがある.われわれの多くが英語の読み書きに苦労するのと同じことである.これを伝えることは大事なことである.

(ところで「手話言語は自然言語の一つである」という主張は「地球温暖化は存在する」という主張と同じくらい自明なものである(はず)なので,ここでは何も述べない.)

よって揚げ足を取っているだけであるが,(ろ)をうまく解釈することができない.あるいは(ろ)は偽である.

まず,「助詞」とはなんだろうか.益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法改訂版』(くろしお出版1992,第9章)によると

名詞に接続して補足語や主題を作る働きをするもの,語と語,節と節を接続する働きをするもの,等を一括して「助詞」という.

とされているが,一方,注で,

文中での働きということから言えば,「助詞」として一括する強い根拠はないが,ここでは,慣用に従って「助詞」という品詞を設けておく.

とされている.例としては,いわゆる「てにをは」から,接続のための「と」「の」「から」「けれども」文末の「ね」「わ」「かしら」などなど,いろいろなものが挙げられ,実際,これらすべてに共通する性質はないように思われる.

つまり,「助詞」とは学校文法的カテゴリーで,自然種ではなく,かなり雑多な表現の集まりを指している.

さて,(ろ)に戻ると,これが,「ろう者の「日本手話」では助詞を使わない」ではないことに注意されたい.自然言語としての日本手話が,上述のような雑多な表現を一つも使わない訳はないからである.しかし,「助詞を使わないことがある」という特徴は,どの言語にも当てはまるように思われる.

  1. 今日天気いい?
  2. 「ううん雨〜

などといった日本語の会話には,少なくとも明示的には助詞らしきものが現れない.日本語でも,助詞を使わないことがあるのである.つまり,「ろう者の「日本手話」では」と述べることによって,日本語ではそうでないことを含意しているように解釈されるので,(ろ)は少なくともミスリーディングである.

もう少し好意的に(ろ)を読むと,主題を導入する提題助詞「は」が日本手話では使われない,というふうにも解釈できる.しかし,この解釈もミスリーディングであるか,偽である.

ここで大事なのは「手話」言語は,音声という様相を使わない言語,視覚という様相を使う言語として理解される,という点である.手の動きそのものは,視覚言語としての手話の一部でしかないのである.手話言語にはNM(non-manual)非手指要素が含まれている.眉や目の動き,頭や肩の動きなどが,多様な内容を表現し,特に機能的な内容を多く表現する.以前も述べたが,日本手話では,所有格が明示されないので,「私と妹」「私の妹」に区別がないように一見思われるが,例えば「うなずき」が同時に行われることによって,「私及び妹」という意味になる.

松岡和美『日本手話で学ぶ手話言語学の基礎』(くろしお出版2015,第3章手話の統語)によると,日本手話において主題を導入するNMは「眉上げ」と「目の見開き」であり,話題の要素の直後にうなずきが入るという.こうしたNMによって,どの構成要素が主題であるのか区別される.例えば

「パンは,田中が食べる」

「田中は,パンを食べる」

「パンを食べるのは,田中だ」

といった日本語文に対応する表現が,日本手話でも構造的に区別されているのだ.よって,NMを助詞のようなものだとすると,「助詞を使わないことがある」は間違いで,日本語や他の言語と同じように,「助詞は普通使われている」が正しい.

日本手話話者だから日本語を書くのに苦労する,のではなく,単に,日本語を書くのに苦労する,でよかったのだ.

「進上」は二度海を渡った

金水敏著『コレモ日本語アルカ?偉人のことばが生まれるとき』(2014年岩波書店)は,以下のように結ばれ,それが印象的であった.

「進上」は二度、同じ海を渡って行き帰りした。むろんそのことを「進上」自身は知らず、またそれを使っていた人々もそのことを意識することはなかっただろう.(了)

「進上」とは,前漢の頃には成立していた漢語であり,日本語へと輸入され「進上する」といったように,広く用いられてきた.本書は,とりわけ満州で使用された接触言語について議論されており,この語もその一部である.日本兵の流入に伴い,当時の中国語にはすでに存在しなかった「進上」が,再び導入され,今でも,抗日映画・ドラマの中で日本語の一種として現れることが述べられている.

本書で語られる興味深い歴史や事例とは全く関係ないが,われわれが有することばの素朴存在論について考えさせられる結びである.

(ところで「素朴」という表現が意味するのは,前理論的に,われわれが有している常識・言葉遣いと適合する,というような意味合いである.例えば,「さびしいと泣いてしまうときがある」というのは正しい見解のように思え,それは「素朴心理学」の一部であると言えるだろう.しかし,「さびしさ」が,心理学や神経生理学の知見を踏まえたときに,自然種として残るかどうかは不明である.)

上記の結びのことばに,違和感を感じる人はいないだろう.「ある単語が二度海を渡る」その歴史的な数奇さは,心に残るかもしれないが,単語が海を渡るようなものとみなすこと自体は,極めて普通のことである.われわれの素朴存在論によると,ことばは徹頭徹尾外在的なものである.また,ことばを具体物とはしないものの,時空間を行き来しつつ,性質を変えながらも同一でありえるような何かと捉えている.

「...ということばは,もともと,...地方で使われて,...という意味しかもっていませんでしたが,今では...という風にも使われています」

といった語りもごく自然だろう.ある程度の意味の変化は許容され,同じことばとして考えられる.上の「進上」は,まさにそうした例だろう.

何かが同じことばである,と判断される大きな基準はその起源にあるようにも思われる.本書で挙げられている別の語彙に,横浜で用いられた「ぽんこつ」があるが,「現代語「ぽんこつ」とは別語」とされている.これらが本当の同音異義語であり,その理由は,由来が違うからではなかろうか.横浜ことばの「ぽんこつ」は「対象がダメージを受けること」も意味するとなっており,反事実的に,現代語「ぽんこつ」と似たような意味を有した可能性もあるだろう.そのとき,われわれはこれらを「同じことば」とみなすだろうか「違うことば」と見だすだろうか,直観は明らかでないが,後者の可能性も大いにあるだろう.

「ことば」の研究をする時,われわれのことばに関して持っている素朴イメージを意識することも大事だろう.「ことば」・「言語」についての主張は,いつでも曖昧なのであり,いらぬ誤解を招く可能性があるのである.

日本語の固有名と連体修飾節

博論でも述べたが,日本語の固有名は,英語のそれと異なり,修飾節が制限的用法・非制限的用法どちらもとくに明示的な区別なくとることができる.

  1. ハワイで休暇をとっているオバマは,1月4日より公務に復帰する予定である.(非制限的)
  2. たばこを吸っている山田は機嫌がいいが,それ以外のときはだいたい機嫌が悪い.(制限的)
  3. [複数の山田がいる場面で]目の悪い山田だけ前に来てください.(制限的)

それと関連する興味深い観察を

小林ミナ,2007,『外国語として出会う日本語』<もっと知りたい!日本語>シリーズ,岩波書店

の中で見つけた(頁86−96).日本語母語話者は,次のような挨拶をよくする.

  • 先日,お電話しました山田ともうします.
  • お電話でお約束した山田です.
  • 九時にお約束しています,まちかね銀行の山田です.

さて,日本語学習者,上級の日本語が流暢な生徒が,これに対して,次のように挨拶をする傾向があるという.

山田と申します.先日お電話いたしました.(電話でお約束しました. etc.)

つまり,名前と状況説明とを二つの文にわけてしまうのである.「ーした山田です」というふうに連体修飾節によって状況説明をすることがないのである.

韓国語母語話者の答えには,両方のパターンが見られましたが,他の言語(英語,中国語,ロシア語,ブルガリア語,タイ語)の母語話者の答えは,すべて別々の文で言うものでした.とくに,ロシア語,ブルガリア語の話者からは,「一つの文でまとめて言うと,同じ名前の人がたくさんいて,「その中でも,とくに私が,あなたに先週電話をした[名前]です」とわざわざ言っているようで奇妙に聞こえる」という意見が出ました.

これらの諸語における,固有名の修飾節の振る舞いを観察するのは興味深いであろう.ロシア語では定冠詞がないが,英語のように制限的にみえるのだろうか?

ちなみに,連体修飾節がとくにマーキングなしに制限・非制限どちらの意味にでもとれるという代表例として,「あっさりとした和食」が提示されていた.なるほど,これは確かに曖昧である.

ところで,同じシリーズの一冊

金水敏,2003,『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店

も読了した.こちらも理論的考察はあまり与えられないが,多彩な資料と歴史的事実を知るだけでも興味深かった.役割語の意味論・語用論的な考察はいかにして始められるべきなのだろうか.