「直接指示」にまつわる誤解3

直接指示に関して次田瞬さんからいろいろと有益なコメントを頂いている.そのうちの一つを紹介しておこう.

他のポストでマイケル・デヴィットの1989年論文 “Against Direct Reference “(「直接指示に反対して」)に言及した.そこでデヴィットは「直接指示の理論」と一口にいってもいろいろ異なる主張が含まれている,ということを指摘する.また,デヴィットは2012年の “Still Against Direct Reference”(「今なお直接指示に反対して」)においても,1989年の論文では多様な直接指示の諸理論とそれらの歴史を検討した,と述べている(注16).

次田さんが指摘されるのは,その一方でデヴィットは,1989年論文で「名前についての直接指示の理論」というものをはっきり定式化している,というものである.デヴィットは「名前についての直接指示の理論」は「ポチ」ポチ説(いわゆるミル説),非記述説,固定指示説の連言(それを全部足したもの),であると述べる.そして,デヴィットはそのうちの「ポチ」ポチ説が間違っていると主張するがゆえに,論文のタイトルが「直接指示に反対して」Against Direct Reference というものになるのだ.

この定式化はあくまで「名前の」 直接指示の理論に関するものである,ということが強調されなくてはならない.もともとは「私」や「今日」といった,指標詞と呼ばれる表現の分析を与える中で「直接指示」という言葉が導入された.固有名が指標詞でないとすると,固有名に対する分析として提出されている「ポチ」ポチ説が「直接指示」という用語の意味の一部である,と述べるのはミスリーディングなように思われる.正確には,直接指示の理論があり,それを固有名にも当てはめていく中で,「ポチ」ポチ説が自然な候補だと思った論者が多かった,なので,直接指示を名前に適用した際,「ポチ」ポチ説をひっくるめて(名前の)直接指示の理論と呼んでもそれほどおかしくない,ということだろう.

デヴィットは指標詞などの直接指示的分析に反対するわけではないので,「直接指示」には反対しないが,それを拡張した時によく一緒にされる「ポチ」ポチ説に反対するから「名前の」直接指示には反対する,というちょっとややこしいことになっている.(じゃあ結局「ポチ」ポチ説に反論しているだけで,「直接指示に反対して」などと言わない方がいいのじゃなかろうか,と思ってしまう.)

また紹介するが,2012年の方では,デヴィットは異なった「名前の直接指示」の定式化を使用する.一人の論者でこれだけ留意点をつけられるのだから,いろいろな用語法の異なる複数の論者を検討するときの複雑さは言わずもがなだろう.

では次回からは,カプランのオリジナルを越えて,「直接指示」をどのようにいろいろな論者が定式化しているのか紹介していこう.

「直接指示」にまつわる誤解2

カプランは Demonstratives において何度も「直接指示」という言葉を使う.

クリプキの意図がどのようなものだとしても,「直接指示的」という言葉は,その指示対象が,一度決められると,どの可能的な状況でも変わらないとされる表現に当てはめたい.すなわち,指示対象が命題の構成要素であるとされる,ということである.

493 (この翻訳を含め,翻訳は超適当訳である.)

後知恵であるが,ここでカプランはいろいろなことを言っていると解釈できる.

「すなわち」の後では,直接指示概念が命題の要素か否かで決定されるとなっている.つまり,表現は命題への寄与が対象であるならそれは直接指示的とみなされる.ところで,言語学の教科書的な確定記述の分析によると,確定記述が決定する対象のみが命題への寄与とされ,記述内容は前提条件とされる.それがおおよそ正しいとしてこの定義に従うと,確定記述も「直接指示的」となる.それはそれでいいのかもしれないが,確定記述も直接指示的と述べるのは抵抗のある哲学者も多いかもしれない.

「すなわち」の前では,直接指示概念が固定指示概念と同じであるかのように述べているように解釈できる.つまり,該当表現を含む文が表す命題をいろいろな仮想的状況において,あってるとかまちがっているとか評価するとき,いつも同じ対象を考慮する,ということである.しかしカプランは,単に固定指示的,という意味で直接指示的と言っているわけではない,とすぐさま次のパラグラフで訂正する.

わたしにとって,直接指示というアイデアは,全ての可能的状況で結果的にたまたま同じ対象を指示する,というものではない.そうではなく,可能的状況での指示対象が実際の指示対象とおなじですよーと表現の意味論的な規則が直接的に決める,ということである

正直この,「規則が直接的に決める (与える) 」(rules provide directly that …) がよくわからない.

少なくとも,ここで強調されるべきは,直接指示的という概念と,一般的に解釈され使用されている意味での固定指示的という概念は同じではない,ということである.

「直接指示」にまつわる誤解1

「直接指示」(direct reference)や「直接指示の理論」という用語には細かな留意点が多数存在する.そのためか,この用語についていろいろな誤解が広がっているようなので,その解消を目指した議論を少しずつ提出していきたい.

「直接指示の理論」といった言葉によっていろいろ異なる概念や理論が意図されている可能性があるので,「直接指示」という用語を見た際は,いつも一体何が意味されているのか注意深くよりわけないといけない.

そもそも,一体「何」についての「直接指示の理論」なのか,意外にもはっきりしていない場合が多い.これは『言語哲学大全 III』が詳しいところであるが「直接指示」というフレーズはカプランが指標詞(「今」「わたし」など)について導入したものである.

なので「ポチ」といった固有名について語っているときに「直接指示を否定するのですか」などと尋ねられても,困ることが多い.固有名と指標詞は一応違うものとして扱われることが多いからである(固有名を指標詞として分析する立場も複数あるからこれもややこしい).30秒で返答しなければならない状況などは,「そんなことないですよ.それとこれとは関係ないですよ」とだけ述べて,相手の疑問に答えないまま終わってしまう.

では,固有名に関してだけ話を絞れば,「直接指示」ははっきりするのかというとそうでもない.

この点も(もちろん)『大全 III』に述べられている.

ただし,「直接指示の理論」ということで,単一の理論が存在しているわけではない.(p.292)

単一ではないということは二か三つくらいの別の事柄が関連づけられているのだろうか.マイケル・デヴィットは以下の論文で

  • Devitt, 1989, Against Direct Reference, Midwest Studies in Philosophy

固有名に関してだけ述べても,「直接指示」にはいわゆる「ミル説」,「非記述説」,「固定指示説」,「因果説」の四つが関連づけられていると述べる.もちろんこれらは関係していると言えば関係しているのだが,それぞれ内容も外延も異なる用語である.これらのうちの一つについて話をしているつもりでも,聞き手は別の一つが念頭にあったりすることがままある.またこれよりさらに広汎な前提(とくに「言語」や「指示」についての前提あるいは考え方の違い)が錯綜するので,混乱するな,と言われても困るかもしれない.

しかしながら,生産的な議論をするには一体何について語っているのか,何の問題を解決しようとしているのかはっきりさせなければならない.

ここでの「ミル説」(Millian Theory)と呼ばれている立場を,デヴィットはよく「「ポチ」ポチ説」(the ‘Fido’-Fido theory)と記載する.ミルだって厳密にはそんな立場を提唱していないので,その方が誤解が少なかろう,と考えているのだろう.

どういう立場かというと,「ポチ」といった固有名の意味内容は,それによって指示される対象,すなわちポチによって尽くされる,という考え方である.固有名は一種のラベルあるいはタグのようなものであって,特定の人物(動物・建物・都市..)にぺたっと貼付けられている印のように理解されるべき,とする考え方である.

さて,ではこの「「ポチ」ポチ説」あるいは「ミル説」によって「直接指示」を定義していいのだろうか.もちろんダメである.一つの理由は,「わたし」という指示詞が直接指示的である,といった言説を残さないといけなくて,そして「ポチ」と「わたし」は違う種類の表現だからである.ミル説に従い,「わたし」という言葉が,例えば安倍首相にだけぺたっと貼付けられている印だ,と考えることは単に間違っている(じゃあどうやってわたしは「わたし」を使ってわたしについて語るのか).

ミル説と直接指示が相反しない,と考えることは正しいが,ミル説と直接指示を同一視してはならない.