ことばの力とは何か

ことば,言語に力があることをみんな認めている.誰もが予想していなかった選挙の結果のあと,ツイッター上などでの人びとのつぶやきも,ヘイトスピーチやポリティカルコレクトネスに対する言及が増えており,ことばの持つ力への関心の高さがうかがえる.

しかし,しばしば「ことばの力」の意味が誤解されている,あるいはその範囲が低く見積もられているようにも思われる.「ことばの力」と聞いて,みなはどのように解釈するだろうか.

一つの解釈は次のようなものだろう.

ことばは意味やら情報やらを担っており,それを広く伝達することにより,多種多様な結果が生まれる.例えば悪い考えを広めたり,特定のグループを排除したり,特定の人を傷つけたりすることができる.ことばは「影響力」を持っているのだ.ことばの不注意な運用がもたらす帰結をよくよく吟味していかないといけない

この考え「も」正しいだろう.しかし,これはことばの因果的な力にのみ焦点を当てた「ことばの力」解釈である.

言語哲学者兼カント哲学者兼フェミニズムの哲学者レイ・ラングトンは,言語行為論や語用論における概念を,われわれの間に存在する問題含みの表現に適用してきた.代表的なものはポルノグラフィーとヘイトスピーチである.

例えば、ラングトンは,ポルノグラフィーは因果的にいろいろな悪影響を与えるからという理由のみによって規制されるべきなのだろうかと問う.確かに,出演者への影響、消費する子供や大人への影響,そうした帰結に応じて,社会の中で制約が課されていくのは当然だろう.そして,実際にポルノグラフィーがどのような因果的力を持つのかは純粋に経験的問題であり,社会科学者たちによって検討されなくてはならないだろう.

しかし,ラングトンは,その因果的力が何であれ,ポルノグラフィーという表現はそこで描かれる特定の集団(多くは女性)を「従属させる」(subordinate),という言語行為そのものであると分析した.

オースティンの発語媒介行為 perlocutionary act と発語内行為 illocutionary act の区別が重要だとラングトンは指摘する.

この区別を理解するために,たとえば,

(1)あいつを殴れ.

と発話することによって,話者は何をしているのか考えてみよう.誰かが殴られて怪我をする,という結果が生まれるかもしれないが,そうでないことの方が実は多いかもしれない.冗談を言っているだけで,笑いが生まれるかもしれない.そこで,ここでは,話者は(1)と述べることによって,誰かに誰かを殴らせる,誰かを笑わせる,そうした結果を生むようなことをしている,と考えることができる.

言うことによって,何かを引き起こすようなことをする.それがオースティンの発語媒介行為である.発語を媒介として何かを達成するのだ(「説得させる」ということを達成したのかもしれない).

しかし,(1)の発語は発語媒介行為という特徴づけに尽くされるだろうか.たとえば「誰かに誰かを殴らせるという行為」とだけ特徴付ければそれで十分だろうか.

そんなことはないだろう.(1)の発話で,話者は人を殴るように「促した」のかもしれないし「アドバイスした」のかもしれないし,「命令した」,「教唆した」のかもしれない.状況・立場などによってどう特徴付けるべきかは異なるだろう.それによって話者の責任を問うこともできるだろう.いずれにせよ,(1)の発話は,その発話を特定の状況で行うことが,ある種の行為そのものと特徴づけられるだろう.発話が原因で特別な何かが起こる,というだけではなく,その発話そのものが特別な何かなのだ.その何かを,発語内行為とオースティンは呼ぶ.「約束」,「命名」などが典型例としてよく挙げられる.

さて,ラングトンは,ポルノグラフィーは発語媒介行為として,いろいろな悪影響・悪い結果を因果的に引き起こすかもしれないことをもちろん認める.しかしそれだけではなく,ポルノグラフィーは発語内行為として,「従属させる」(subordinate)という行為そのものなのであると主張する.

「従属させる」がどういう行為かというと,「ランク付け」(rank)を行い,差別的行動を「正当化し」(legitimate),そして権力を「剥奪する」(deprive)という三つの特徴があるとラングトンは考える.

もしこうした行為が何らかの意味で「悪い」ことならば,ポルノグラフィーは「悪い」だろう.そしてその悪さは,その発語媒介的結果とは無関係なのである.

こうした分析を,ヘイトスピーチ,蔑称などに当てはめていくことは,ポルノグラフィーに対してそうするよりも簡単かもしれない.ポルノグラフィーはそもそも表現なのか,発話なのか,もしそうだとするとどういう意味でそうなのか,といった問いを考えなくてもいいからである.

さて,もし「土人」といった蔑称を使用するということは,単に何らかの情報・意味を担った音声を発することではない.それは何かをしているのだ.例えば,集団のランク付けを行い,ある集団に対する特別な扱いを正当化しているのかもしれない.それが許容される行為なのかどうかが問われなければない.そうでなく,単に発話の結果のみに焦点を当てるのは,ことばの役割・力を低く見積もっているといえるだろう.

また,ことばの結果としての力にとらわれると,ことばを引き起こす力にもとらわれるのかもしれない.あるいは,ことばを振るうものの力・権力ばかりに目がいき,ことばそのもの力を過小評価してしまうことにつながっているのかもしれない.この点はまた回を改めよう.