三浦俊彦教授のウェブ記事について2

前回の検討でわかったことは、さも事実かのように述べられていることがらには、まっとうな根拠が与えられていなかったということである。参照されている北米の団体の調査を、もっともらしい理由なく恣意的に解釈していることがわかった。この点には二つ側面がある。

第一に、著者は、調査結果の信頼性などを問題にしているわけではなく、調査結果の一部を利用しつつ、その一部を否定するという極めて非合理的な態度をとっている(かのように見える)。繰り返しだが、(著者が引用する数字の中で)著者の言う「女性パートナーを求めている」に当たる回答項目の割合は27%である。しかし著者は、他の回答を与えた回答者の一部を、「女性パートナーを求めている」に当てはまるとする。つまり、この調査の回答に信頼性が特にないかのように振舞っているのだ。

もちろん、そもそも調査には信頼性がないと考える可能性は考えられる(そのためにはその根拠が与えられなければならないが)。しかし、そうするならば、27%という数字も当然疑わしくなってくる。なのに、著者は27%という数字は使用する。このあからさまな非合理性を著者に帰属していいのかがわからない。一つの可能性は、そもそもデータをまともに参照するつもりがなく、自分の想像に一致するように自由に改変しようとした、ということかもしれない。

第二に、ここでの参考文献の使用は、われわれ研究者・教育者が普段使用している水準とかけはなれている、ということである。レポートの書き方などを指導する際、第三者がチェック可能なソースを使うように、と口を酸っぱくする(戸田山著『論文の教室』など参照)。「ウィキペディアを見てもいいですが、そこで参照されている一次的ソースをみてください」などなど。アメーバブログへの url があることから、ひょっとすると、著者はネットで閲覧したこと踏まえて、ここで記述されていることを記述したのかもしれないが(まさか???)、それは当然、つまりは根拠が特にない、ということを示したに過ぎない。

根拠がとくに与えられないことがらをさも事実かのように述べる文章を、われわれは普段わざわざ検討したりしない。

これ以上私は進むべきだろうか。ここで問題になるのは、いわゆる “No Platform” 「演壇ノー」(ウォーバートン『表現の自由』入門など)であるべきところを、まるで理性的議論に値するちゃんとしたものかのように見せてしまうのではないだろうか、という不安である。

この不安はおそらくずっと解消されないが、いたしかたないので、次の機会にさらに議論を進めることにする。次のトピックは、文章の展開があからさまに非論理的である、ということである。隠された前提などを指摘していく。

 

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