統制機構としての言語3

スタンリーの議論のまとめを続ける.

ことばの非争点内容は,有無を言わさず,「交渉の余地なく」共通背景に押し付けられる.そして,いろいろなことばの内に,支配者する側のイデオロギーが非争点内容として反映されているとしよう.例えば,被支配者層には犯罪者を作り出すような文化がある,といった内容である.この内容自体は法外なもので,もしそれを端的に提示されれば拒否するとしても,プロパガンダが巧妙なのは,それが非争点内容として現れるというところだ.非争点内容として密輸される以上,支配者層のイデオロギーを簡単に批判したり,退けたりすることが非常に困難になる.支配者層の発言を肯定しても,否定しても,イデオロギーを受け入れることになってしまうからである.

これは,典型的ないわゆる「前提」の事例を考えてみるとよく分かる.

  1. お,田中さん,タバコ辞めたんですか?

に対して田中が,

はい.そうです.

と答えても,

いいえ,辞めてないです.

と答えても,タバコを吸っていた(る)ことを認めることになるだろう.「タバコ辞めたんですか」と質問する人は,田中という人物が,タバコを吸う習慣があったことを前提として話しかけている.(1)を立ち聞きした人は,田中はタバコを吸ってたあるいは今でも吸うんだな,と思うだろう.もちろん,タバコを一切吸っていないのならば,「はい」で「いいえ」でもなく,話を切り返さなくてはならない.

2. え?ちょっと待って下さい.そもそもタバコ吸わないので,何か誤解があります.

といった返答がもちろん可能だろう.(1)と(2)のやりとりをする人物がまったく同列の立場にあり,それぞれの発言が均等に尊重されている場合,このような誤解に何の問題もない.しかし,(1)と述べる人が,田中よりもはるかに立場が上だったとしよう.田中はどこまでそれに抵抗できるだろうか.(2)と返すことは失礼に当たるかもしれない,いきなり「あなたは間違っている」ということを指摘できるだろうか.面目を潰せば,あとから意趣返しを受けないだろうか.「へへへ」などと適当に田中はことばを濁すかもしれない.では,(1)を繰り返し述べれば,もう田中が喫煙者であることは一種の既成事実として誰もが認めることとなってしまう.

(1)のような単純な質問ですら,それに真っ向から立ち向かうことは難しいのかもしれない.では,系統だった政治的圧力に対して,被支配者層が立ち向かうことの困難はいかなるものか.

支配者層は,被支配者層を,自分たちは劣っているという主張を受け入れなくては,そもそも議論に参加できないような立ち位置へと追い込むのだ.(p. 162)

こうしたプロパガンダは,被支配者層を「従属させる」という言語行為なのである.プロパガンダがうまくいけば,攻撃対象に対する悪しきステレオタイプを拡散することができ,対象は劣等であり,信頼すべきではない,平等の考慮に値しない,ということを受け入れさせることができる.

繰り返しであるが,プロパガンダの有効性は,非争点内容を利用して間接的にイデオロギーを拡散するところに由来する.「黒人は怠け者だ」と端的に主張し,それに対する根拠を提示し,大衆を説得しようとするまっとうな政治家などいない.誰も「黒人は怠け者だ」などとは言ってはいない.言ってなければ文句を言われる筋合いもない,わたしは単に「都市部の貧困層の問題」について議論しているだけなのだ,というわけである.

ここで,極めてタイムリーな発言が思い起こされる.

3. 現場で一生懸命働いている機動隊に勤務ご苦労様だというのは当然だ.

という大阪府知事のこの発話の通常の意味的内容は,一切問題がない.これはいわゆる総称文の一種で,一般的に,AはBだ,と述べているに過ぎない.「犬は吠える」というのと同じで,一般的に,現場で一生懸命働いているサラリーマンの勤務をねぎらうのは,もちろん「当然」だ.

しかし,文字通り「言ってはいない」ということが何の言い訳にもならないことは対黒人のプロパガンダを考えれば明らかである.文字通りの意味と言語行為の関係は複雑であり,ある文の文字通りの意味よりも,それを発話して何をしているかがより重要だからである.

大阪府知事の言語行為は何なのか,そしてそれは民主主義国家で許されるものなのか,これらにどう答えるかは読者に任せたい.

Leave a comment